爾朱栄
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爾朱 栄(じしゅ えい、493年 - 530年)。字は天宝、北魏の最高実力者である。父は爾朱新興。漢風の姓は郭。
[編集] 生涯
出自は契胡族(または奚丹、鮮卑の別部で契丹の祖の一派とされる)の有力部族の爾朱部の酋長だと言われている。若くして北魏に仕官し、勇猛果敢で孝明帝の時代には遊撃将軍となっている。
正光年間(520年 - 525年)には六鎮の乱平定に武功によって、車騎将軍・大都督に昇進した。
528年、武川鎮にいた爾朱栄は生母の霊太后(胡充華)の専横を除くよう孝明帝の密詔を受けたが、陰謀は露見し孝明帝は生母の霊太后によって毒殺されてしまう。
これを爾朱栄は君側の奸を除くと称して挙兵し、高歓を先鋒として、配下の騎馬遊牧民を率いて洛陽を攻め、尼になって詫びた霊太后を許さず、彼女が立てた幼い孫の少恭帝・元釗(孝明帝の從子)と共に殺害し、その遺体を黄河に放棄した。(河陰の変)
やがて、孝明帝の従弟である元子攸(孝荘帝)を擁立し、自らの娘を娶らせその外戚となった。序に彼は都督中外諸軍事、大将軍、尚書令、領軍将軍に就任した。間もなく太原王と称して、嫡子の爾朱菩提と共に帝位簒奪の機会を伺うようになった。
彼の帝位簒奪こそは実現しなかったが、529年に目障りな河北の葛栄を侯景を先鋒としてこれ滅ぼし、北鎮の乱を平定した。やがて、北魏の皇族系の北海王元顥を破って、天柱大将軍を号するなど天子の岳父としての専横が目立つようになった。
孝荘帝は岳父の跋扈・専横ぶりを苦々しく思った。また妻の爾朱皇后が父と兄の権威の笠を着て、夫を常に馬鹿にしていたので、ついに堪忍袋の緒が切れた孝荘帝は、530年にたまたま妻の爾朱皇后が身籠ったので、岳父の爾朱栄にその朗報を知らせ、同時に暗殺計画を練った。
一方、爾朱学は孫の誕生予定を聞いて大いに喜び、娘の見舞いのために息子の爾朱菩提を伴って、宮殿に来た。
孝荘帝はこれを幸いとして、殿中で爾朱父子を誅殺し、その首級は晒しものにされた。
だが、孝荘帝も間もなく爾朱栄の一族(いとこやおい)である爾朱兆・爾朱世隆・爾朱天光・爾朱仲遠らによって、皇位を廃された挙句に帝は晋陽に連行され殺害されたのである。後に、爾朱一門は鮮卑系の北斉の高歓によって、滅ぼされたのであった。
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