片岡仁左衛門 (7代目)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
七代目片岡仁左衛門(ななだいめ かたおか にざえもん、宝暦5年(1755年) - 天保8年3月1日(1837年4月5日)は江戸中期から後期の歌舞伎役者。俳名は我童、万麿、梅里。雅号は南麗舎。屋号は松島屋。紋は丸に二引。
京の生まれ。浅尾為十郎門人1776年(安永6年)春、二代目浅尾国五郎と名乗る。京・大阪で活躍し一時師を破門され山沢国五郎を名乗る時期もあるが着実に実力を付けて、1788年(天明8年)2月大阪の嵐叶助の許可を受け、中絶していた片岡仁左衛門家を再興し、七代目を名乗る。
1794年(寛政6年)並木五瓶とともに江戸に下り都座に出演、以後は京・大阪・江戸の三都の舞台に立ち、八十三歳という当時稀に見る長寿で死ぬ直前まで現役を勤めた。
門閥外から座頭まで這い上がった努力家であった。時代物世話物さらに所作事をこなし、役柄も広く、立役、女形、実悪、敵役などあらゆる役に通じた。肥満体であったが、優れた容姿であったという。
養子に八代目片岡仁左衛門、門人に初代片岡市蔵がいる。その芸脈は現十五代仁左衛門に続いている。
墓所は大阪市の薬王寺。