甘寧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
甘寧(かんねい、Gan Ning 生没年不詳)は、中国の後漢末、三国時代の呉の武将。字は興覇(こうは)。益州の巴郡臨江県(現在の四川省忠県)出身。短気で粗暴なところもあったが、武芸に秀で仁義に厚い、呉で屈指の猛将。甘瓌・甘述の父。曾孫の甘卓は東晋に仕えた。
目次 |
[編集] 青年期~不遇時代
若い頃より遊侠を好み、不良の若者を集めて武装させ、彼らの頭領となった。羽飾りを背負い、鈴を常に携えていたので、民衆は鈴の音を聞いただけでそれが甘寧だと分かったという。属城の長吏クラスに自分達を盛大に歓待させ、そうしない者には手下を使って財産を襲わせた。また長吏の領内で犯罪があれば長吏の怠慢や過失を追求した。
二十年あまりも経ってからそうした乱暴をパッタリと止め、いくつか諸子を読むようになった。食客八百名を連れて劉表に身を寄せたが任用されず、後に呉に移ろうとしたものの黄祖の軍勢が夏口に駐屯していたため通過できず、黄祖の元に留まった。のちに黄祖軍として孫権軍の凌操を討ち取るなどの手柄を立てるも、結局三年もの間礼遇されず、不満を募らせた甘寧は都督である蘇飛の助けで黄祖の下を出奔し、孫権に降った。
[編集] 呉の勇将として
甘寧が身を寄せると、周瑜・呂蒙が連名で推薦した為、孫権は旧臣同様に甘寧を遇する事にした。この際甘寧は、まず荊州を押さえ、さらに益州をも攻め天下に覇を唱えるという「天下二分の計」ともいえる戦略を提言して孫権に気に入られ、早速黄祖攻めに従軍した。孫権軍が江夏で黄祖を討ち破った際、かつての恩人である蘇飛もまた生け捕られた。甘寧は涙ながらに蘇飛の助命を嘆願し、孫権もこれを容れている。
周瑜に随行して曹操を烏林で打ち破り、続いて南郡の曹仁攻略に参加する。甘寧はまず夷陵を奪取すべきとの計略を立て、すぐに手勢千人程を以って陥落させたが、逆に曹仁に五~六千の兵士を繰り出されて包囲された。甘寧は猛攻に何日も耐え、平然と談笑して屈せず、使者を出して周瑜に知らせると、周瑜は呂蒙の計略を採用し、諸将を率いて囲みを解いた。そして決戦の末曹仁は撤退することになった。
皖城攻撃に従軍した際には呂蒙により升城督(攻城隊長)に任命されると、甘寧は城壁をよじのぼって官吏兵士を先導し、あっさりと打ち破って敵将の朱光を捕らえた。論功行賞の結果、呂蒙が第一、甘寧はそれに次ぐものとされ、この時折衝将軍を拝命した。
建安二十年(215)、孫権と劉備が荊州返還を巡って緊張状態になると、魯粛に随行して長沙の益陽を守り、関羽と対峙した。関羽は軍勢三万を号し、精鋭五千人を以って夜半に上流の浅瀬を押えると喧伝した。甘寧は魯粛から千人の選抜兵を預かり夜中に出陣すると、それを聞いた関羽は結局渡河を断念した。孫権は甘寧の功績を称え、西陵太守に任じて陽新・下雉の両県を領させた。
[編集] 呉に甘寧あり
それからまもなくして孫権は十万の大軍を動員して合肥を攻めた。しかし軍中の疫病などもあって攻めあぐね、結局撤退した。この時孫権が呂蒙・蒋欽・甘寧・凌統とわずかな手勢しか連れていないのを見て、合肥の張遼は突如急襲をかけてきた。甘寧は凌統らと共に奮戦し、孫権は辛うじて危機を逃れることが出来た。
建安二十一年(216)に曹操が濡須へ侵攻した際には、甘寧は前部督となり、百人ほどの選抜隊を組むと曹操の陣営に夜半奇襲をかけた。これにより敵兵は混乱し、動揺して引き下がった。孫権は喜び、「孟徳(曹操)には張遼がいて、私には甘寧がいる。丁度釣合が取れているな」と甘寧の武勇と豪胆さを賞賛し、軍勢二千人を加増した。
没年は不明。子の甘瓌は罪を犯し、会稽に流罪とされたあとに病死した。
[編集] 人物
侠客から足を洗って呉の武将とて長じた後も、その荒々しい性格は収まらず、たびたび些細な事で人を斬り殺しては、上司である呂蒙に戒められていた。 あるとき、甘寧の料理人が小さな失敗をして、呂蒙のもとへ逃げ込んだ。呂蒙は甘寧の激しい性格を知っていたので、決して料理人を殺さない、と誓わせ、口添えした上で料理人を帰した。ところが、甘寧はこの料理人を樹に縛りつけた上で射殺してしまった。これには呂蒙も激怒して甘寧を処罰しようとしたところ、呂蒙の母は「天下の大局は難しいところに来ています。内輪もめをしている場合ではありますまい」と諌めたので、呂蒙は気持ちを改めて和解を持ちかけた。甘寧は涙ながらにこれを受け、事なきを得たという。
粗暴で殺人を好んだものの、しかし爽快な人柄で優れた計略を持ち、財貨を軽んじて士人を敬い、手厚く勇者たちを育てたので、彼らの方でもまた役に立ちたいと願った。蘇飛や呂蒙、そして孫権の例を見ても恩義には命がけで報いる好漢といえる。
[編集] 演義では
若い頃は徒党と組んで江湖一帯を縦横に荒らしまわり、「錦帆賊」と呼ばれる水賊であったとする。 やがて曹操が荊州に進出すると、甘寧は対決を主張。赤壁の戦いでは偽って投降してきた蔡中を利用して敵陣深くに潜り込んで火を放ち、さらに逃げる曹操に追いすがり損害を与えた。 また、濡須口の戦いでは自身を仇と狙う凌統の危機を救い、凌統はかつての恨みを水に流し二人は固い親交を結んだ。ちなみに史書にはそのような記載はない。
甘寧の死については、『三国志』(正史)では単に「卒去」となっているのに対し、『三国志演義』では、夷陵の戦いにおいて病床の身を押して出陣し、沙摩柯の矢を受けて戦死している。
[編集] 関連項目
- 南京民俗博物館 - 別名「甘熙故居」。甘熙は甘寧の子孫だとされる。