畠山義英
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畠山 義英(はたけやま よしひで、生年不詳 - 大永2年(1522年)?)は、畠山基家(義豊)の嫡子。畠山義就を祖とする畠山総州家4代当主。次郎、上総介。
1494年に元服。1499年に基家が戦死した事により家督を継承。
最初、細川政元の傀儡として過ごしていた。しかし、1504年頃からに細川氏の内訌が起こり激しくなると、義英は細川氏からの独立を模索し同年には畠山尾州家(畠山政長を祖とする)の畠山尚順と和睦した。1506年に細川政元の武将赤沢朝経の攻撃を受け没落した。1521年にも敗北した記録が残っており、以後はその微証が知られない。専門家によると1522年に没したのではないかとされている。
義英政権では守護奉行所・守護代奉行所が創設され、畠山総州家の領国経営の基盤が整備された。