細川政元
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時代 | 室町時代後期から戦国時代 | |||
生誕 | 文正元年(1466年) | |||
死没 | 永正4年6月23日(1507年8月1日) | |||
別名 | 聡明丸(幼名)、九郎(通称) | |||
諡号 | 雪関 | |||
官位 | 従四位下、右京大夫 | |||
幕府 | 室町幕府管領、丹波・摂津・土佐守護 | |||
氏族 | 細川氏 | |||
父母 | 父:細川勝元 母:山名熙貴の娘(山名宗全の養女)(異説あり) |
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子 | 養子:細川澄之、細川澄元、細川高国 |
細川 政元(ほそかわ まさもと)は、室町時代後期の武将・戦国大名。室町幕府の管領。細川勝元の嫡男である。
目次 |
[編集] 略歴
三管領家の一つである細川京兆家の当主。室町幕府の管領として幕政を牛耳り、細川家の全盛期を築き上げたが、奇怪な行動をとることが多く、また実子が無かったために養子を3人も迎えたためにかえって家督争いを引き起こし、最期は自らもその争いに巻き込まれて家臣に殺された。
父は細川勝元で、母は不明。勝元の正室である山名熙貴の娘(養父は山名宗全)を母とする説もあるが、根拠となる史料は無い。養子に細川澄元、細川澄之、細川高国。
[編集] 生涯
[編集] 家督相続
文正元年(1466年)、細川勝元の嫡男として生まれる。文明5年(1473年)の応仁の乱の最中に死去した父・勝元の後を受けて、わずか8歳で家督を相続し、丹波・摂津・土佐守護となる。しかし幼少のため、細川政国の補佐を受けた。
文明6年(1474年)、山名政豊と和睦する。文明18年(1478年)には元服して足利義政の偏諱を受け政元と名乗り、管領に任じられたが、短期間で辞職している。長享元年(1487年)、管領に再度就任するが、これも短期間で辞職している。
[編集] 勢力争い
延徳元年(1489年)、第9代将軍・足利義尚が陣没すると、第10代将軍には堀越公方の足利政知の子・足利義澄を推挙するが、日野富子の後押しもあって足利義視の子の足利義材(後の足利義稙)に決定してしまった。これにより、義材の父である足利義視と管領の畠山政長の権勢が高まった。しかし義視が延徳3年(1491年)1月に死去すると、政長が単独で権力を独占するようになる。
明応2年(1493年)、畠山義就が死去すると、将軍・足利義材は政長と共に河内に侵攻し、畠山義豊(義就の子)を攻め立てた。すると4月、政元は義材の留守中に日野富子と結託して足利政知の子・足利義澄を第11代将軍として擁立したのである(明応の政変)。この政変により、政長に協力的な態度を見せていた赤松政則も政元に寝返ったため、政長は孤立無援となって政元に攻められて自害に追い込まれ、義材は捕らえられて京都竜安寺に幽閉された。政元は義材を小豆島あたりに流罪にしようとしたが、島流しの直前に義材には脱出されてしまった。
とはいえ、一連の政変で政元は明応3年(1494年)、足利義澄から管領に任じられ、将軍を事実上の傀儡にして幕政を牛耳る天下人にのし上がったのである。
[編集] 諸勢力との戦い
しかし逃げ延びた義稙(義材)は、明応8年(1499年)に北陸の兵を率いて近江にまで侵攻する。しかし政元はこれを破り、同じく義稙に呼応して攻めてきた畠山尚順も破った。
こうして全盛期を築き上げた政元であるが、生涯独身を通して山伏信仰に凝り、諸国を放浪するなどの奇行(ただし、その際に各国の守護らとの会見を持っており、自派勢力拡大のための政治目的もあったとされている)があり、幕政を混乱させることもあった。こうした気分屋的な傾向、そして実子が無かったことは管領細川氏の家督相続問題にも反映した。
文亀2年(1502年)、九条家から家督相続を条件に細川澄之を養子として迎えた。しかし政元は澄之を廃嫡し、文亀3年(1503年)5月、分家の阿波細川家から細川澄元を養子として迎え、家督相続を約束したため、澄之・澄元両派の対立が先鋭化した。
永正元年(1504年)9月には家臣で摂津守護代の薬師寺元一が謀反を起こしたが、政元の命令を受けた薬師寺長忠らによって鎮圧され、守護代には新たに長忠を任じた。永正3年(1506年)、家臣の赤沢朝経に命じて河内の畠山義英を攻めさせ、さらに大和にも侵攻するなど、勢力を拡大してゆく。永正4年(1507年)には紀伊、さらに丹後・丹波の一色義有に対しても軍を侵攻させるなど、勢力はさらに拡大してゆく。
ところが、政元はこのような戦乱が嫌になったのか、修験者として奥州で廻国修行をしたいと言い出した。これは家臣の三好之長の諫言により断念された。しかし永正3年(1507年)6月23日、澄之派に懐柔された警護役の竹田孫七・香西元長・薬師寺長忠によって、湯殿で行水をしていたところを襲われて殺された。享年42。
これ以降、細川京兆家は内紛を重ねて急速に没落していくことになる。
[編集] 人物・逸話
- 生前の奇行や死後の内紛などのため、これまで後世の評価は決して芳しくはなかった。しかし、近年では政元の時代こそが細川京兆家の全盛期であったと見るのが通説となっている。
- 幕政を牛耳り、当時では勢力随一の大名であったことから半将軍と称された。
- 独身を貫いたのは修験道に凝ったためと、彼自身に男色の好みがあったためとされている。