疋田氏 (牧野家重臣)
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越後長岡藩重臣疋田氏(えちごながおかはんじゅうしん ひきたし)は、初代越後長岡藩主・牧野忠成の父であった牧野新次郎康成と、兄弟分の契りを結んでいた由緒を持つ同藩における客人分連綿に差し置かれた特権的な上級家臣、及びその一族。
[編集] 概要
疋田氏は、牛久保年寄衆の一つに数えられず、牛窪記や牛久保城古図には、疋田姓を見ることはできない。疋田氏は、やはり東三河の地侍として、牛窪(牛久保)城主牧野氏に与力していたものと考えられる。
疋田氏は越後長岡藩主となった牧野氏に随従して、先法家と呼ばれる特権的待遇を受けることになった。
先法家の意義と特権は、越後長岡藩の家臣団のページ、先法の概要の項目を参照されたい。
天正7年(1579年)の遠江国持舟城合戦に当主・水右衛門が戦死、その忠孝は高く評価されたが、その遺児は幼く、自然、立場は微妙であったと云われる。
しかし、元和元年(1615年)大坂夏の陣で武功をあげ、寛永年間(1624年~1644年)初頭には、今泉竹右衛門(大坂の陣・武功の一人、初期の家老・千三百石)らと共に、江戸にあった主君牧野駿河守忠成を国元(国許・在所)で支える側近としてその存在は重かった。世襲家禄は六百石であったが、八石加増となった。なぜ端数の八石が加増されたのかは、理由不明であるが一説によると菊に関する某のことで加増されたとも云う。
謎の多い今泉竹右衛門家が、越後長岡藩から突然、消滅(失脚・出奔また他藩への仕官とも)すると、疋田家にも再び立場に影が差すことになった。
疋田氏は、百五十八石の分家を分出して、総領家は四百五十石となった。
宝永5年(1709年)には、総領家から分知されていた疋田氏分家は、罪により改易となった。その理由は「御人減少」とされる。後に家名再興を許され百石となった。疋田総領家もこのとき減知され、一時は三百五十石となったが、やはり許されて四百五十石に復した。
疋田氏は、江戸時代後期になって、五代目疋田水右衛門が登場するまで、分家を分出するに当たって、真木(槙)氏・野瀬(能勢)氏と異なり新恩がまったく認められず、総領家の家禄を削る形で分家を分出した。またその穴埋めの加増もなかった。支藩にも、有力な疋田氏は存在しない。
五代目疋田水右衛門は、百石が加増され、世襲家禄が五百五十石となる。長岡藩立藩以来、疋田氏に与えられた初めての新恩であった。
六代目疋田水右衛門は百石の分家を分出したため、四百五十石となる。分出された百石の分家は一代限りで、消失しているが、その理由を示す史料は未見である。総領家に家禄は還付されていない。このとき総領家は五十石の減知を受けて、四百石となっているので、懲罰による改易を受けたものと推察される。
七代目疋田水右衛門は、五十石が加増され、四百五十石に復す。
明治維新後に、疋田氏は、藩主家の家令となった。