牧野忠成 (越後長岡藩初代)
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牧野 忠成(まきの ただなり、天正9年(1581年) - 承応3年12月16日(1655年1月23日)は江戸時代の大名。越後長岡藩初代藩主。長岡藩系牧野家宗家2代。大胡城主牧野康成(右馬允)の長男。母は酒井忠次の娘。通称は新二郎、右馬允、駿河守。
戦国武将から近世大名への過渡期の牧野一族とその家臣団を導き譜代大名の地位を確保、長岡藩立藩を果たしその後約250年の長岡藩政の礎を築いた。
この忠成の孫に当たり、越後長岡藩第2代藩主となる同姓同名の牧野忠成については、牧野忠成 (越後長岡藩二代)を参照のこと。
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[編集] 事績
天正9年(1581年)、三河国宝飯郡の牛久保に生まれる。父に同じく徳川家康に仕え、その継嗣徳川秀忠に付属する(実名忠成は秀忠の偏諱拝領という)。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦に備え、父康成と共に徳川秀忠の軍勢に具奉して上田城の真田氏を攻める(後述)。慶長9年(1604年)、父康成公事を辞し大胡城に閑居、忠成父の職務を代理す。翌10年(1605年)2月29日徳川秀忠将軍宣下につき上洛。同4月従五位下駿河守叙任。同14年(1609年)12月父康成死去につき、大胡藩2万石の跡式と大胡城を継承(大胡藩第2代藩主)。慶長19年(1614年)10月大坂冬の陣に徳川軍五番備えにて参陣。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣にも参陣し奮戦、5月8日麾下の壮士等首級27を挙げ、大坂落城に寄与。
元和2年(1616年)春大御所徳川家康死去、忠成は7月に越後国長峰5万石に加増移封、長峰築城。同4年(1618年)3月同国長岡6万余石に加増再転(越後長岡藩立藩)、堀直寄の居城を拡充完成し長岡城とする。同5年(1619年)、広島城主福島正則改易につき花房志摩守と共に上使を承り江戸福島屋敷の正則にその旨を伝えまた、広島城受取りの事を務める。この年通称をまた右馬允とする。翌6年その功により越後国古志郡に1万石加増、併せて7万4千余石となる。寛永2年(1625年)10月領地の朱印状を秀忠より発給された。寛永7年(1630年)6月初めて領地長岡に入る。寛永11年(1634年)7月秀忠に具奉して上洛、従四位下侍従に叙任される。承応3年(1654年)駿河守再任。同年12月16日江戸屋敷にて死去。享年74。法名、宝性院殿前四品仙譽月卦正心大居士。
[編集] 葬地
[編集] 概要
長岡藩領内古志郡栖吉村(現長岡市栖吉町)普済寺。なお、同寺には牧野忠成木像が安置されている。(2006年現在、同寺は2004年の新潟県中越地震大被害から再建の途上である。)
[編集] 殉死者
能勢兵右衛門重信(200石) 渡部七郎左衛門正信(30石) 池田小左衛門成興(300石 池田恒興が甥)
[編集] 家族
正室は永原道真の女(はじめ妾たりと云う、また先室を松平主殿助家忠の女とする説あるが不詳)、子女は5男3女あり。
嫡男は牧野光成(老之助・大和守、母は永原氏)、父の家督を継がずに寛永14年(1637年)6月22日早世。
次男は牧野康成(初名武成、内膳正、母は永原氏)、のち父の領内より与板藩1万石に分出、小諸藩祖。
三男は牧野朝成(能登、母は某氏)、寛永8年(1631年)12月13日信州上田にて早世。
四男は牧野定成(初名直成、播磨)、父の領内より6千石分知をうけ直参旗本となる。後の三根山藩祖。
五男は牧野忠清(半右衛門、初め父の意向で家老稲垣平助則茂の養嗣子となるも、牧野家に復し徳川家綱の小姓となる。のち兄定成の後嗣となり三根山牧野家を継ぐ。)
長女は嶺秀院(実名不詳、母は某氏)、美濃国大垣藩主戸田氏信正室。
次女は花形院(実名不詳、母は某氏)、倉橋政勝室。
三女は迎雲院(名はお吉、母は長谷川氏の女)、出羽国松山藩主酒井忠恒正室。
実弟に牧野秀成と、牧野儀成がいる。
秀成は通称主水正、江戸の兄忠成が初めて長岡入りする寛永7年(1630年)までは、長岡に在って兄の留守を守り、家臣に人望があったとも云う。しかし、家臣団の中に秀成を担いで派を競う動きがあったともいわれ、忠成の上意により自害させられたとも、誅殺されたとも伝えられる。これに関係があるか不明であるが、寛永14年(1637年)6月6日の彼の死の直後の6月22日に兄忠成の嫡男光成が急死し、その後の牧野家内の継嗣争いに発展する。葬地は栃尾組椿沢(現見附市)の椿沢寺にある。法名は冷光院殿覚了幻心居士。
のちには弥彦神社の旧末社五所宮の祭神として牧野出羽守保成等三柱と共に牧野秀成も祀られていたといい、主祭神大己貴命に加えての牧野家関係者四柱を祀ったのはその怨念を鎮めるためとも云う。
儀成は、新恩をもって、旗本に召し出されたもので、越後長岡藩や、上野大胡藩の所領を分与して、分家として分出させたものではない。このルーツは、笠間藩祖となった。
[編集] 九里惣右衛門御落胤説
牧野忠成は、家臣の新潟代官・九里五郎太夫賢久の妻(あるいは妾)にお手つきになり、ご落胤がいたとする有力説がある。越後長岡藩文書・諸士由緒記などによると、九里氏の長男・惣右衛門は、別段の召し出しがあり、忠成の書き付け(お墨付き)が与えられていたとする。九里氏の跡式は、次男が相続した。詳細は、別ぺージ越後長岡藩の家老連綿・先法以下の上級家臣の項を参照されたい。
[編集] 抜け駆けの家臣を庇い出奔
慶長5年(1600年)9月、石田三成挙兵(いわゆる関ヶ原の陣)に対陣すべく徳川秀忠に随従した牧野忠成は、諸将とともに前哨戦として信州上田城に真田昌幸・幸村(信繁)父子を攻める任にあたる。この時、逃げる城兵の誘いにのって城門内にまで攻め込んだがこれは真田方の巧みな計略であったために大敗してしまった。
その責を問われた大久保忠隣は現場指揮官を切腹させて許されたが、牧野忠成は所属の指揮官の贄掃部を逃して本人も出奔してしまった。父の牧野康成も部下の抜け駆けは戦国の倣いと弁護したため、徳川秀忠の怒りを買い上州吾妻城に蟄居させられた。しかし、戦後は大御所家康の意向もあってか処分は数月にして寛恕され、康成・忠成父子は大胡に復帰した。
その後の忠成は秀忠への忠節に励み、この件での禍もなく出世・栄転を得ることになった。一説に上田城攻めは徳川軍戦力を温存し福島正則ら反石田三成派の豊臣大名に緒戦を戦わせて豊臣両派の力を削ぐための時間稼ぎともいうが真相は明らかではない。
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