越後長岡藩の家臣団
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越後長岡藩の家臣団(えちごながおかはんのかんしだん)は、元和4年(1618年)4月、越後国長岡藩に入封し明治3年(1870年)10月に廃藩となるまで在封した譜代大名牧野氏表高6万2千石(後、表高7万4千石・実高約14万石)の家臣団である。彼らは戦国時代より"常在戦場・鼻を欠いても義理を欠くな"を家訓として掲げた三河国宝飯郡を発祥とする近世大名・牧野氏宗家に仕えた武士団である。
ここでは特に門閥を中心に記述する。なお、越後長岡藩史に関しては越後長岡藩を参照されたい。
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[編集] 家老連綿
稲垣氏(2)、山本氏、牧野氏(2)の5家が、世襲家老の家柄(家老連綿)である。この中で稲垣平助家と、山本帯刀家が上席家老である。
長岡藩文書には、永代家老と云う文言は、ほとんど見当たらず、これに相当する語として、家老連綿という語が用いられている。
[編集] 稲垣氏
稲垣氏は、『藩翰譜』などによると、遠祖は清和源氏小田重氏であるとする。文明年間 (1469年~1486年)に伊勢から三河宝飯郡牛窪に移り、稲垣藤助重賢が、牧野家に仕えたとある。また別の説によると稲垣氏は、牧野氏と共に駿河・遠江の戦国大名、今川氏に仕えたが、牧野忠成の祖父である牧野成定(1525年~1566年)が死すと、11才(異に17才とも)と若かった牧野康成(1556年~1609年)に不安があり、山本氏などと協議の上、稲垣長茂が後見役として牧野家の家臣筆頭となる。天正3年(1575年)、衰退著しい戦国大名・今川氏の旧領を争っていた徳川家康は、遠江諏訪原城(別名・牧野城)の城番に牧野康成を配置したが、その陣代として稲垣長茂の功績は絶大なものがあった。
稲垣氏の惣領(当主)であった長茂は、1590年に、牧野家から離れて家康の直参となり、末裔は伊勢鳥羽藩主や、近江山上藩主などとなった。
一方、庶子であった稲垣平助則茂が、牧野家中における稲垣惣領家の跡式を相続したものと推察され、家康の旗本身分を兼帯して牧野家の臣下となり、やがて越後長岡藩・家老首座連綿(2,400石)となった。
その後、1665年に分家を2つ出して2,000石となった。分家の一つである稲垣太郎左衛門成心は、後に加増され、1690年に600石を与えられて家老に抜擢された。そして翌1691年に200石を加増され、やがて家老連綿(1,100石、後に1,200石)に昇格した。また稲垣太郎左衛門の末家となる源太左衛門家は、支藩の与板藩の番頭級の家臣に添えられた後に、藩主の小諸藩(城主)栄転後に、家老格に班を進めた。
幕末までに、越後長岡藩内において、家老連綿2戸・大組着座家1戸・大組7戸の最大の門閥勢力となっていた。
稲垣氏の主要な人々は、北越戦争において、官軍に恭順を主張。開戦にあたって、藩命に背き従軍しなかった者もいた。 但し、稲垣氏庶流で、大組・着座家の稲垣林四郎と、大組・稲垣主税は、開戦派であった。
稲垣平助則茂の嫡流の子孫である稲垣平助茂光は、家老首座となるも、河井継之助の藩政改革により、2,000石から、500石に減知され閑職の兵学所頭取に棚上げされた。但し家老の身分を剥奪されたわけではなかった。
また北越戦争にあたって出奔。明治維新後は蚕糸農家と、旅籠の主人となった。その六女である鉞子は、明治年間に貿易商杉本氏と結婚のため24歳のとき単身で渡米。日本文化を米国に紹介したことで著名である。日本人として初めてコロンビア大学講師等を歴任し、代表的な著書として『武士の娘』がある。
[編集] 山本氏
山本氏の遠祖は、鎮守府将軍源満政であると伝えられる。源満政の末裔、源重長が美濃木田郷に住し、木田を称した。その子・重国は、承久の乱で後鳥羽上皇に味方して、討ち死にした。その甥、重季(通称・吉野冠者)も伯父と共に討ち死にした。木田重季の子孫は、駿河富士郡山本村に住し、木田弾正貞久が山本と姓を改めて、駿河・遠江の戦国大名、今川氏に仕えた。
1565年に徳川家康によって岡崎城に、牧野氏、岩瀬氏等と共に召し出されて、直参となる。
1566年に牧野成定が死すと、稲垣、山本、野瀬(能勢)の3氏に対して、徳川家康から、牧野組に於いて諸士を掌握すべきとの命が出された。1590年ごろ山本帯刀左衛門成行(牛窪記には山本帯刀とあり)は、牧野氏に家康の旗本身分を兼帯して帰参して上州大胡藩で2,200石を与えられた。
慶長9年(1604年)7月の彼の死以前に、総領・勘右衛門某は夭折していたので、高禄で山本四郎主馬(1,100石分知・家老)が分出され、本家は、1,100石(孫五郎・のち勘右衛門成政)となる一方で、やがて山本四郎主馬の家系は、無嗣廃絶となった。成行の孫の山本勘右衛門成政が、越後長岡藩・家老次座連綿の山本氏の初代となった。その後は、分家を度々分出したが、加増を受け、1,100石から、1,300石程度を保って安定的であった。
越後山本勘右衛門成政の直系子孫と推察される庶流は、数多くある。家禄は、おおむね100石前後のものが多く、大きなものでも200石未満であった。これらは長岡藩・大組に7戸、支藩の小諸藩・奏者格に1戸、及び旗本・牧野氏(後に交代寄合から陣屋大名の三根山藩に昇格)の家老職になった1戸、同藩内にこの分家と思われる上級藩士1戸などがあった。
その他、家老連綿の山本氏と同族であると云う保証はないが、分家の分家となると思われる家禄・数十石(小組に所属)の山本姓3戸が存在する。
また山本勘右衛門成政以前の分脈として、甲州・武田二十四将の一人、山本勘助や、鳥羽藩主稲垣氏・家老の山本氏、越前家家臣山本氏、徳川将軍家旗本(250石)山本氏がある。
越後長岡藩文書に次のような記述がある。「高千二百石 山本勘助同家 山本帯刀左衛門成行嫡子 実孫 山本勘右衛門 初名源五郎 」云々と。
幕末に、越後長岡藩の門閥勢力が河井継之助に敵対的であったのに対して、同藩次席家老の山本帯刀義路(やまもとたてわきよしみち)は、彼の父と異なり協力的であり、北越戦争において会津飯寺で捕虜となったが、詫びれば助命するとの沙汰を拒否して、斬首となった。余談であるが山本五十六帝国海軍連合艦隊司令長官は、この家を養嗣子として継いだ人である。
[編集] 牧野氏(1)
牧野氏は、本姓山本氏、通称は牧野頼母・市右衛門。
初代藩主牧野忠成は父である上野国大胡藩主牧野康成の末女(つまり忠成の実妹の馨香院)を、継嗣の無かった藩士・山本市右衛門某(300石)の養女とした。ついで、藩主の三河時代の同族異流である牧野弥次兵衛正成(250石)にこの山本市右衛門養女(馨香院)を嫁がせた(このためか正成は600石に加増で騎馬組を預けられた)。
この夫妻に誕生した子・正直(初め左平治と称す)を山本家の継嗣とした。これにより牛久保以来の功臣・山本市左衛門の家名を維持存続した(但しこの山本家の嫡流は、それ以前に越前松平家に仕官している)。
同家第2代山本正直は父・正成の跡式600石を継いだ。
藩主一門として牧野姓と三ッ葉柏紋を許されると共に家老職700石(100石加増)に取立てられた(家老牧野頼母家の成立)。 長岡藩の2代目の藩主の座を巡って紛争がおきたとき、正直は初代藩主牧野忠成の孫である忠成(通称二代目忠成・飛弾守)擁立に大きな功績があり、その子3代目牧野頼母のときに加増されて1,100石となった(→詳細は越後長岡藩/お家騒動を参照)。
4代目の牧野頼母正含は、世襲家禄として、はじめ600石の相続だけが認められたが、段々加増されて、1,100石となり、直系子孫は1,100石を家禄とした。また牧野頼母正含一代限りは、山本勘右衛門(山本帯刀家)より、格上とされた。
なお、家祖の一つ牧野弥次兵衛の家は藩主家の三河国時代の分流で永禄4年(1561)に徳川氏に帰属、藩主家と別の歩みをしたが、大胡藩成立時に牧野康成に付属、後に家臣となった。(詳細は三河牧野氏/その後の牧野氏を参照) この家系の嫡流(伝十郎家)は3代目牧野次郎左衛門(初め伝十郎、250石)のとき罪により改易となったが、その次男牧野十左衛門(100石のち110石)や三男牧野十助家(100石)の庶流が残った。
また異に、当家は、徳川御三家の水戸家を浪人して、長岡藩牧野家に再仕官したもので、家老次座連綿の山本氏の庶流を再興したものでないとする文献もあるが、上記の家伝などにより信じがたい。
北越戦争当時の牧野頼母は開戦派に属したが、敗戦後は、長岡藩の大参事となった。
[編集] 牧野氏(2)
牧野氏は本姓松井氏、通称は牧野平左衛門。
藩主牧野家が三河牛久保で徳川家康と和睦した頃、徳川氏の部将松井忠次(左近、のち松平康親と改称)の一族・松井次郎兵衛光次が徳川氏より付属される。その3男・金七郎も大胡藩主牧野康成に属し(1,000石)、後に家臣となり牧野称姓を許され牧野五兵衛(正時)と称した(なお松井光次の長男は三方ヶ原合戦に戦死したため、その遺児勘助某が松井家を継ぎ、忍藩主在任当時の松平忠吉に仕えた。子孫は尾張徳川家家臣となった。)。五兵衛の嫡男牧野主馬(正行)は元和4年(1618年)長岡移封に組頭として従い、元和6年(1620年)には康成の第3女(慶台院)を室に賜り一門家老となった(900石)。主馬は、牧野平左衛門と改称。
しかし、3代目平左衛門(正友)のとき嗣子無く死去したが、藩はその弟・長九郎(のち浅之助正之)に700石(知行・家老格)で継承を認め、以後幕末まで700石・家老を世襲した。2代目浅之助(正武)の同腹の弟牧野八左衛門(正光)は新知(150石)を受け別家となった。その幕末の当主八左衛門正安の室はやがて、家老上席・軍事総督に一代で抜擢される河井継之助の実妹の安(やす)であった。
[編集] 先法(槙(真木)・能勢・疋田)
[編集] 先法御三家の意義と概要
真木(槙)氏、野瀬(能勢)氏、疋田氏の御三家を長岡藩では、特に先法家(先家)など呼び、特権的な扱いをしていた。
先法家(先家)とは、牧野氏が三河国宝飯郡(現、豊川市)牛久保城在城時代に、藩主家である牧野氏の先祖に果たした忠節の筋目の意と考えられている。
藩主牧野氏は、譜代大名で幕閣要職に名を連ねながら、徳川家康及び、その先祖と敵対していた歴史を持つ。藩主牧野氏はその家伝・系図において、徳川氏に服属する以前の内容には意図的に記述を避けたり、忘却された部分が多いと推察されるが、真木(槙)氏と、野瀬(能勢)氏を知ることは、謎の多い藩主牧野氏の安土桃山時代以前の客観的事実を知ることにつながり、対徳川氏(松平氏)となした軋轢の全容解明に寄与する。そこで下記に室町・戦国時代の牧野・真木・能勢の項目を設けた。
真木(槙)氏、野瀬(能勢)氏、疋田氏の御三家は、その先祖が初代長岡藩主・牧野忠成の父である牧野(新次郎)康成と、主従関係ではなく、『兄弟分の契り』を交わしていたと云う由緒を持っていた。
疋田氏は、三河国設楽郡の土豪の出自であると推察され、天正年間以前は、牧野氏・真木氏・能勢氏とは異なる歴史を持っていたと考えられる。
牧野忠成が越後長岡藩を立藩したとき、この三家の処遇を巡って混乱した。この混乱に先立って、三河国牛久保城寄騎であった能勢氏の惣領家は、幕臣・旗本になっていたが、後に徳川忠長が将軍家から分家したのに伴いこれに随従した。謀反の疑いで主家が改易となったが、牛久保城寄騎・能勢氏の惣領家の末裔が幕臣に復帰できたとする史料は未見である。
徳川幕府が三河国出身の小領主・国人衆を全て、直参とはせずに、三河以来の譜代大名の家臣として、組み入れることを、容認したことが、混乱の背景としてあるものと推定される。
真木(槙)氏と、野瀬(能勢)氏は、事実上、減封のうえ吸収されて、家臣となることに強い不満を持ち、一時脱藩したが、藩主牧野氏が復帰を呼びかけたため、これに応じた。
御三家の中で、最も有力であったのは真木(槙)氏であったと考えられる。真木(槙)氏は、牧野氏大胡在城期(1590年~1618年)には、家老首座を凌ぐ3,000石の食禄を、まだ2万石に過ぎなかった牧野氏から与えられていた。東三河の豪族であった牧野氏は、西三河の豪族であった松平氏(徳川氏)に征服されてから、この時代はまだ歳月が浅く、大胡藩領も大きなものではなかった。また大胡城内に越中屋敷なる地名が残るが真木越中守にちなむものと考えられ(牧野越中守儀成は時代的に該当せず)その存在の大きさを物語る。また息女を後に、近江国膳所藩主となった戸田一西の正室としていた。しかし家中では客人分の呈にて差し置かれていた。
この先法家と称された御三家は、次のような特権を持った。
- 家老の支配を受けずに、長岡藩領の内、栃尾一万石の支配にあたった。
- 前当主である隠居は、在職中の功労の有無に関わらず、寄合組に列して養老米を受領することができた。
- 藩主が在所にあるときは、元旦に、家老首座を含む全ての藩士に先立って、藩主と盃を交わし、雑煮を会食することを習わしとした。
- 家老と先法御三家は、日常の軍役が免除された。
北越戦争にあっては、槙(真木)氏は恭順派の中心的存在であったが、他の先法家も、おおむね恭順派であったと云われる。但し、槙三左衛門家(三郎左衛門の誤りに非ず)庶流となる槙吉之丞は、開戦派であった。
[編集] 室町・戦国時代の牧野・真木・能勢
[編集] 東三河の豪族
越後長岡藩主牧野氏の確実な先祖(あるいはその近親者)であることが史料学上、ほぼ疑いのない牧野古白が東三河に登場した戦国時代中期の当地の概要をはじめに述べる。
三河国守護職の一色義貫は、室町6代将軍・足利義教によって永享12年(1440年)、大和国・信貴山の竜門寺で自害に追い込まれ、守護職は細川氏に交代していた。
三河国守護代であった西郷氏は、徳川家康の祖父となる松平清康に降伏。守護職が細川氏となってからの守護代・東条氏は、一色氏に攻め殺されていた。
こうした中で、三河国は、荘園制は侵略により完全に解体。額田郡岡崎の松平氏・渥美郡田原の戸田氏・宝飯郡牛窪の牧野氏・碧海郡刈谷の水野氏などの有力土豪の乱立によって混迷して、戦国の様相を色濃くしていった。
これに目をつけた隣国となる駿河国・遠江国の戦国大名今川氏は、今川氏親・今川氏輝・今川義元・今川義元の4代に渡り、三河国の侵略を意図して介入した。
三河国守護職一色氏のいわば残党である一色義貫の甥一色時家が、三河国宝飯郡の長山・一色城に割拠していたが、現実の勢力は、郡代程度であり、文明9年(1477年)に豪臣の波多野全慶に暗殺された。この間の事情は、一色義貫・一色時家を参照されたい。
次に牧野氏・真木氏・能勢氏の概要を述べる。岩瀬氏については、越後長岡藩の家臣団には加わらず徳川家に召しだされたが、この時期の牧野氏を語る上で、避けて通れない存在であるので、最小限だけ触れる。
牧野成富の家督を相続した三河国宝飯郡の土豪牧野古白は、宝飯郡(豊川市牧野町)の牧野城から、約1キロ離れた同市瀬木に新たに城を築いて南部に進出したとされるているが、同時代文書は存在せず伝説の範囲を出ない。
しかし牧野城の城としての存在は疑いなく、瀬木城主となった牧野古白は、明応2年(1493年)に、一色時家を下克上した波多野全慶と、灰塚野で合戦に及び、これを誅殺して、長山・一色城主に取ってかわった。
宝飯郡の中心地の現住所は現代では豊川市であるが、同地はかつては国府・国分寺の所在地であり、三河国の政治の中心地であった。
余勢を駆った牧野古白は、豊川市(旧宝飯郡)から、豊橋市(旧渥美郡)に進出して、戦国大名今川氏親の命により、真木氏・岩瀬氏等の寄騎と共に、今橋城(吉田城)を築城した(寄騎のメンバーについては諸説あり)。
そして東三河を代表する土豪の一つとなったが、三河を平定するだけの力はなかった。
明らかに誇大な表現であるが、このとき牧野氏は東三河4郡を支配したとしている。
越後長岡藩の藩主家である牧野氏の直接の先祖となる三河国宝飯郡(豊川市)の牧野氏の出自は、諸説紛々である。四国から当地に渡来したとする説と、四国からの渡来を否定して、在地の土豪(開発領主)であったものが発展したとする2説に大別される。詳しい説明は三河牧野氏にある。
江戸時代に越後長岡藩・信濃小諸藩の重臣となった真木(槙)氏の先祖の三河国宝飯郡(豊川市)における初見は、南朝正平5年・北朝観応元年(1350年)のことであり、河内国(現、大阪府南部)から三河国宝飯郡(現、愛知県豊川市周辺)に渡来してきた。
真木・槙・牧野は、発音が似ているため牧野氏と同族異流・近縁ではないかと俗に、指摘されているが、文献上の根拠はなく、槙(真木)氏は、かなり古くから宝飯郡に存在するので、この推論は、慎重に検討する必要がある。
瀬木村は、その昔は真木村といったとする古記録(三河国八名郡誌など)がある。真木村がなぜ瀬木に改称されたか、また在地の土豪(あるいは正五位下加知天神の神官神職・鍛冶集団など)であったと考えられる真木氏と、真木村との関係については、未解明である。
出自については三河真木氏に詳しい説明がある。
越後長岡藩重臣となった能勢氏の先祖は、吉田(今橋)城主牧野氏の寄騎の武将であった。
室町将軍家番衆(幕臣)の摂津国・能勢氏が、牧野古白(成時、田蔵左衛門尉、利成とも)と、連歌などで交流があり、その一族、能勢丹波守信景が今橋の寄騎に招かれたと伝えられる。
三河国宝飯郡の覇者・牧野氏を確実に配下に収めるため、その対策として、牧野氏と同じ宝飯郡の土豪であった真木(槙)氏と、岩瀬氏を内看として利用していた。
今川氏の長年に渡る三河侵略に協力した真木(槙)氏と、岩瀬氏は、牧野氏との沿革は対照的であった。
奥州須賀川出身であった岩瀬氏は、今川氏に仕官して、牧野氏に付属させられた寄騎であったと考えられるが、一方の真木(槙)氏は、初代長岡藩主・牧野忠成の高祖父(諸説有り)となる牧野古白(成時、田蔵左衛門尉・利成とも)や、牧野出羽守保成などの股肱の宿老的な存在であった。
[編集] 徳川氏(松平氏)等との抗争
牧野古白は、永正3年(1506年)11月、徳川家康の高祖父となる安城城主、松平長親(長忠・道閲)が東三河に侵攻して、合戦に及び、同月3日に敗れて切腹したとする(有力な異説あり→永正3年今橋合戦)。
西三河では、家康の祖父・松平清康が三河守護代・西郷氏の居城、岡崎城を奪い廃城として、新しい岡崎城を築城して城主となり、西三河の雄となるほど成長した。
松平清康は、三河統一を目指して、伊奈城主・本多氏(彦四郎家)を案内役に共に享禄2年(1529年)5月、東三河に侵攻した。
真木氏は、自らが築城に関わった今橋城(吉田城)救援のため奮戦したが落城し、城主の牧野信成・三成(成三とも)兄弟は討ち死にした。
今橋落城(享禄2年5月28日(1529年7月3日)に際しては、初代の能勢丹波守も討ち死にしたとの伝承がある。
松平清康は、この戦勝の後に、伊奈城で祝宴を催して、松平家(徳川家)の家紋を三つ葉葵に定めた(諸説有り)。
その後の今橋城は、松平氏の支配下となったとも、松平氏に内通した正岡城主・牧野成敏が傀儡として、城主になったとも云われる。やがて渥美郡田原城主・戸田氏によって牧野成敏は、城を奪われ、天文15年(1546年)に牛久保・牧野氏は、今川氏の力により奪還に成功して還付を受けたが、今川義元が城代を任命する城となり、牧野氏の城であることは有名無実化した(この今橋城の争奪の歴史には諸説あり)。
牧野嫡家を裏切ったはずの牧野成敏の惣領は、後に牛久保牧野氏に臣従している。
今橋城主・牧野信成・三成兄弟は、牧野古白の嫡流であるが、信成・三成兄弟の直系子孫は、松平・本多連合軍に敗れた後に衰退する一方で、庶流の牛久保・牧野氏が命脈を保って発展して、後に近世大名となったとするのが通説的な考え方である。
松平・本多連合軍に敗れた牧野信成・三成兄弟の残党の一部は、渥美郡大高村に亡命して、織田家の家臣や、幕臣(旗本)牧野氏(田口姓)となった。
ところが三河統一を目の前にした松平清康が、天文4年(1535年)12月の通称、森山崩れで、家臣に暗殺されて自滅した。
その嫡子・松平広忠は、幼少で父を失い、広忠が大叔父の信定(桜井松平氏)と対立して、一時は諸国を放浪した。
広忠は、戦国大名・今川氏の助力を得て、辛うじて家督を相続して、岡崎城主となり、信定からの謝罪を受け入れてこれを許したが、暗愚であったとされる祖父・松平信忠の時代に分裂した一族・家臣団の対立が再燃して、その取りまとめに苦心して、牧野氏・真木氏等の近隣諸豪族と一戦を交える余裕はなかった。
天文18年(1549年)3月、父清康に続き、自身広忠も暗殺されて、松平氏は今川氏に付属化した。今川義元の威光で、牧野氏・真木氏等との対立は膠着となった。
牧野成勝は、永正2年(1505年)に瀬木城を廃城として移転してた長山一色城主となっていた。
彼は享禄2年(1529年)、今橋城に進出していた惣領家の牧野信成の命を受けて、牛窪を牛久保と改めて長山一色城の隣接地・長山とこさぶの岸屋敷を接収して牛久保城を築城したと云われている。しかし、城主になれたかどうかは、諸説がある(詳細→牛久保城)。
戦国大名今川派の旗頭的な存在であり、牛窪記では、牛久保城主であったとされる牧野出羽守保成は、豊橋市の今橋城(吉田城)から、松平・本多連合軍に敗れて撤退した牧野氏の残存勢力を、豊川市の牛久保城に結集して、松平氏(徳川氏)・戸田氏に備えていた。
牧野出羽守保成は、松平氏の停滞を奇貨として、牧野氏の復権を目指し、宝飯郡全域と渥美郡(豊橋市)の一部を、勢力圏に置いた。
また天文15年(1546年)今川氏より牧野一族惣領権を認められたと推定され、以後約17年間にわたって宝飯郡の覇権を握っていたが、永禄6年(1563年)3月の対徳川戦に敗れて、討死または自害(諸説有り)した。
牧野出羽守保成の嫡子と思われる成元は、牛久保城の相続を、松平(徳川)派であった牧野成定・康成親子(初代越後長岡藩主・牧野忠成の祖父と父)と争って敗れ、高野山追放となった。
11年後の永禄3年(1560年)5月、桶狭間の合戦で、織田信長に今川義元が討たれると、広忠の嫡子・松平元康こと、後の徳川家康が、今川氏の人質から解放され、西三河の岡崎城に自立した。
今川義元の威光による膠着が解け、家康は、三河統一を目指して、東三河に進出した。
戦国大名・今川氏の衰亡が、次第に明らかになる中で、東三河の牧野出羽守一族と、真木越中守定善等の今川支持派は、依然として、これに固執(あるいは義理を重んじていた)。
今川派であった真木越中守定善の父は、永禄4年(1561年)年4月に、牛久保城外の合戦で討死した。
この合戦は、当時まだ今川派であった牧野成定等の不在を突かれて、徳川軍とこれに同調した東三河・国衆の牛久保奇襲を受けて、落城の危機に陥ったときに、留守を預かった真木一党の奮戦で、辛くも城を守ったものである。この一戦を真木(槙)氏は、槙軍談として、長く子孫に伝えた。
こうした真木(槙)氏の歴年に渡る忠節に対して、今川義元の家督を相続した氏真は、感状を下した。
討ち死にした真木氏及び、自害した真木花藻の墳墓は、古記録(牛久保古地図・牛窪記・三河国宝飯郡誌など)には、一本松(字名)にあったとされるが、昭和30年代前半に愛知県営牛久保住宅が造成された際に、その敷地内にあった墓地群は、整理・改葬された(真木氏末裔及び、地元の古老より聞き取り。喜多むめ所蔵文書など)。
その後、牛久保住宅は、老朽化して平成4年~5年(1992年~1993年)に、全面的に中層住宅に建て替えられて、過去の面影を全く残していない。
牛久保牧野氏や、岩瀬氏が浄土宗の寺院である光輝庵を主な葬地としたが、真木(槙)氏は一本松にあった野火の火葬場の近くに一族の共同墓地を持っていた。
[編集] 徳川家康に恭順
牧野出羽守保成一族と袂を分け、今川から徳川に寝返った(あるいは降伏した)牧野成定・康成親子には、いうまでもなく家康の援助があった。
古くは、牧野出羽守保成の弟と考えられる牧野民部丞貞成(初代越後長岡藩主・牧野忠成の曾祖父。但し貞成・成定は養親子関係)等が、早くから岡崎城主であった徳川家康の祖父・松平清康に心を寄せていたとされるが、江戸時代の徳川政権下での著述であるため、創作の可能性も捨てきれない。
しかし、牧野民部丞貞成が弘治2年(1556年)、今川氏に逆心の疑いがかけられたことは、文献上、確実である。
彼がおこした牛久保城クーデターとも云える胎動が、その子・孫の代になって、実を結んで牧野氏は、徳川家康の旗下となり、牧野康成・忠成親子が、近世大名・譜代大名への道を歩んだ。
家康に与した牧野組の多数派によって今川派の牧野出羽守保成・成元親子を排除されたとするのが、有力な見方である。
牧野出羽守保成と、牧野右馬允(うまのじょう)成定の系図上の繋がりは諸説があって解りづらいので、詳細は牧野成定を参照されたい。
牧野氏等が、家康に降伏・恭順した時期については、寛政重修諸家譜巻第364を根拠とする永禄9年(1566年)5月説と、牛窪記及び・牛窪密談記などに収載された牧野家丑年の吉事を根拠とする永禄8年歳乙丑(1565年)3月説の2説がある。
宝飯郡の土豪で牛久保年寄衆(牛久保六騎)であった稲垣氏・山本氏・岩瀬氏及び、牧野一族で牛久保城の寄騎であった牧野山城守(八大夫・定成)等は、牧野氏降伏・恭順に先立ち、これよりも早く家康に帰属を約していた(寛政重修諸家譜巻第367など)。
岩瀬氏の当主は2代にわたって討ち死にしていたが、天正18年(1590年)に、関東の戦国大名・北条氏の根城・小田原城攻めの武功などで、牧野組を離れて、家康の直参旗本となった。
天正18年(1590年)牛久保城主であった牧野氏(牧野新次郎康成)は、徳川家康の関東移封に随従して、上野国大胡城主となり、2万石を与えられた。
ところで今川派の真木越中守定善は、家康の降伏勧告に従った後も、牧野組に残留していたが追放・蟄居を免れていた。
真木越中守定善(=真木清十郎重清・氏常とも)は、上野国大胡に随従して食禄3,000石を与えられた。天下を統一した家康を産んだ三河の土豪で、時代の波に乗り遅れた典型的な一人となっていたと云えよう。
真木氏とは対照的に、時代の波を察知した稲垣宗家から分家していた稲垣平助及び、山本両氏は、徳川家康の直参旗本となっていたが、上州大胡在城期(1590年~1618年)の藩主牧野氏に、徳川家・旗本の資格だけ温存した上で、いち早く帰参して、大胡藩-長岡藩政に主導的役割を果たした。
他方、家康への内通をせずに、今川派の牧野右馬允成定、牧野出羽守保成の側に、今川氏の内看的存在として、在り続けた真木(槙)氏は、両氏らと一線を画した厳しい立場に置かれていた。
結局、真木越中守は、長岡(大胡からとの説もあり)より、突如として出奔し、奥州会津郡坂下村(現・福島県河沼郡会津坂下町)に隠棲した。
2代目の能勢丹波守の総領は、家康に恭順後、牧野氏の家令(可令)として牧野組の諸士を掌握したが、やがて禄を離れた。詳しい伝説については、能勢氏を参照のこと。
2代目の能勢丹波守の次男、能勢七郎右衛門正信も、なお牧野氏家臣団に残っていたが、上州大胡在城時代(1590年~1618年)に、槙三郎左衛門と馬の儀にて喧嘩となり出奔した。
能勢氏や真木氏の出奔は、武功派家臣が力を失い、藩主に権力が集中していく過程を意味している。能勢藤七重正は、やはり真木(槙)氏と同様に、家禄・家格に不満があり高崎に出奔していたとされる。
大坂夏の陣の勲功などにより、越後長岡藩主に栄転した越後長岡藩主・牧野忠成は、真木氏と、野瀬氏を三顧の礼をもって長岡藩に迎え、あらためて槙氏・能勢氏として客人分連綿の家柄に差し置いたのである。槙氏・能勢氏は、長岡藩に帰参後は、冷遇されたのが現実であった。いずれ徳川譜代の長岡藩の新体制に吸収される運命であったのであろう。
その後、真木越中守の外孫となる戸田氏鉄は、美濃国大垣藩主10万石に栄転して、正室に初代越後長岡藩主・牧野忠成の息女を迎えた。こうした一連の動きによって、槙氏・真木氏に再び薄日が射したとも云う。
真木越中守定善の弟の真木小太夫重基は、牧野氏の下を出奔せずに、その家臣団に残留したので、実弟でありながら、嫡子として、1,700石の相続を許されて『槙』姓に改姓せずに、一貫して『真木』姓を称していた。
真木(槙)氏・野瀬(能勢)氏が長岡において冷遇された原因として、旧体制時代の牧野氏の宿老的存在と云うだけでなく、徳川家康に臣従後に、これといった勲功をあげられなかったことも、その背景にあるものと推察される。
こうした中で、真木(槙)一族でただ一人、大坂夏の陣で、武功をあげたのが、真木(槙)金右衛門であった。
真木(槙)金右衛門は、真木小太夫重基の庶子の一人で、微禄に過ぎなかったが、その武功により150石を与えられて、後に初代越後長岡藩主牧野忠成の庶子・牧野康成(=武成)が、分家をして与板に陣屋を構えて立藩したときに、番頭級の家臣として付けられたものである。この家系が班を進めて、越後与板藩・信濃小諸藩家老連綿・真木氏となった。
[編集] 家老連綿・先法以下の上級家臣
ここでは、大組の中で、300石以上の禄高を受けたことのある藩士と、一代家老・大参事に抜擢された藩士について、解説する。但し300石で区分するのは、厳密な意味はないが、300石は、家老を補佐する奉行格であったと云える。世襲の家禄と役職との間に差があるときは、不足分は足高となる。役高については(越後長岡藩/職制)を参照。
先法家の疋田家が、懲罰による減知や、分家の分出を経験して、江戸後期には、450石となっていた。明文化された規定はなかったようであるが、先法家より格下の藩士の世襲家禄は、疋田氏の家禄を上回らない範囲とされ、それ以上となると分家を分出する慣行・または不文律があったものと推察される。
[編集] 九里氏
九里氏(九里別家)は、御落胤の家系と云われる。九里別家と九里総領家の他に、大組に100石級の九里姓一戸があるが、九里別家が分家を分出したものである。九里別家と九里総領家とでは、別家のほうが家格が数段階、上である。また小禄の九里姓の藩士が6戸ある。その内訳は、九里総領家の庶流5戸と、九里別家の分家の分家となる末家が1戸である。その出自については、名門の家系ながら不明な点が多い。上州大胡在城期(1590年~1618年)の牧野氏に仕官したと推定されるが、大坂夏の陣で武功があったとする記録は特にない。
九里五郎太夫賢久(130石)は、藩主・牧野忠成が、元和4年(1618年)長岡入封に随従して、新潟代官となった。その嫡子・九里惣右衛門頼純は、別段の召し出しであったとするが、この別段とは何を意味するのであろうか。特別な勲功や、功労があったとは思えない130石取り家臣の長男を、近習として召し出し、父の家禄とは別にいきなり、350石を与えて、その後、毎年50石を加増して、450石となした。藩主牧野氏との男色説から、ご落胤説まで諸説があるが、九里氏は、異常な厚遇を受けて、九里五郎太の跡式は、次男が相続して総領家となり、三男・四男までが、新知を与えられて召し出されたのである。100石級の藩士の庶子が一度に2名~3名も、新知をたまわり別家を立てることは異例である。
別家扱いとされた長男・九里惣右衛門(450石)は、江戸城の普請の手伝いなどを行ったが、中老・年寄・番頭・御用人・奉行などの藩・重役には就任することはなかった。また九里惣右衛門には、藩主・牧野忠成の「直筆の書き付け」つまり、お墨付きが与えられていた。九里五郎太の長男であるとされる九里惣右衛門は、真実はその実子ではなく、その妻などに、長岡藩主・牧野忠成のお手が付き、ご落胤が産まれていたと解釈するのが自然である。このルーツは、さらに50石が加増(計500石)され、孫の代に御用人から奉行組支配となり、100石の分家を分出して400石を世襲家禄とした。その後、番頭に家格を進めて、最高時(五代目)には、550石となり、430石を世襲家禄としたと推察される。九里氏は家格と比較して、家禄が不釣り合いに高い特徴がある。九里氏から家老職となった者はいない。北越戦争では、恭順派に属した。
[編集] 武氏
武氏は、本姓武田氏であるが、甲斐武田氏との関係は不明である。牛久保以来の古参であり、史料的価値が低いとされる牛久保城古図などにも、武姓が見える。
牛久保武氏を伝える史料的価値の高い文献は現存していないが、大坂夏の陣の武功の家柄であり、今泉竹右衛門(1,300石)との関係が深かった。この家系の庶流から名医が出て、江戸時代初期に藩主・家中から大きな信任を得た。
総領家(武弥兵衛家)の家禄は、はじめ400石であったが、減知されて250石を世襲家禄とし、後に200石となった。減知の理由は不詳とされるが、分家の分出であったと推察される。武氏庶流(武三右衛門家)には名医が出て、藩内でその地位を不動のものにしたうえ、直系子孫は、段々と立身して、中老(最高時、500石)・着座家となり本家を凌いだ。世襲家禄は350石であったが、江戸後期から幕末にかけて、しばしば要職に就任して、400石以上を与えられていたと推察される。北越戦争では、恭順派に属した。ほかに武三右衛門から医術を受け継いだその庶流があり武氏は、合計3戸が大組入りした。ほかに小禄の武氏庶流がある。
[編集] 三間氏
三間氏は、上州浪人から、上州大胡在城期(1590年~1618年)の牧野氏に仕官したと推定され、大坂夏の陣の武功により、重鎮となった。
三間弥彦が、初代長岡藩主・牧野忠成の怒りを買って蟄居となり、家禄は、250石に減知されていた。三間市之進は、父と二代に渡って信任を回復して、元禄15年(1702年)、一代家老に抜擢され名を監物と改め、700石となった。
三間監物は以後9年間、家老職にあった。しかし、門閥にいじめられて、ノイローゼとなり宝永5年(1709年)に隠居した。700石の内、500石を家禄として相続が認められ、このとき100石の分家を分出した。さらにその後に分家を分出して、大組に100石以上の二戸の分家を持ち、総領家は、加増を受けて、400石となった。その後、中老職・年寄衆就任に際しては、430石を与えられた。北越戦争では開戦派に属した。
[編集] 雨宮氏
雨宮氏は、諸士由緒記等によれば、初祖・腰石(越石)新兵衛が稲垣氏より特別の由緒(二代目稲垣平助茂幸が継室の弟であり、またもと稲垣氏属臣とも云う。のち雨宮に改姓)があるとして推挙され、稲垣氏が自らの家禄を分与して、長岡藩の大組に列した。実は腰石(越石)新兵衛は、稲垣氏のご落胤であったとする説が有力ではないかと推察される。雨宮氏は、雨宮修堅(実は九里孫左衛門の三男・雨宮正頼)が出て、600石を与えられて、宝永3年(1707年)に一代家老となったが、まもなく失脚してしまった。雨宮氏は、140石の分家を分出している。
[編集] 柿本氏
柿本氏は、異例であり初代藩主・牧野忠成の時代に越後新発田藩溝口氏(外様大名)から仕官し、その後に度々加増を受けて、3代目が寄合組に列して、4代目は500石となり、家禄が初期の倍増以上となった。江戸時代の安定期に入ってからの大幅な家禄の加増は、新恩を与えて分家(別家)を創設する手法が取られることが多かったなかで、総領家に家禄を集中させて単独で大きくなった例は、減封を受けた藩士を旧知に復する場合を除き、長岡藩では珍しい。その後、柿本氏は減知を受けて、230石まで家禄を減らしたが、延享年間には、番頭・町奉行などを勤めて、班を進められて奉行となり450石に帰り返り咲き、家禄として430石を相続を認められたと推察する。
[編集] 槙氏(槙三左衛門家)
槙氏(槙三左衛門家)は、真木三郎左衛門(槙惣右衛門)の次男のルーツであり先法家の槙(真木)氏の分家となる。
越後高田城に、徳川家康の六男・松平忠輝改易のため、城受け取り・接収に際して、牧野家・旗奉行を勤めた槙三左衛門重武を祖とする。300石であったが、次男の槙八右衛門が100石、三男の槙吉之丞が50石(後に50十石加増・計100石)で召し出され、槙三左衛門家は、世襲家禄250石とされた。その後、このルーツは、享保年間にも、30石の微禄の分家を分出した後、10石の加増が2回あったと推察され世襲家禄を240石とした。前記の柿本氏と対照的であり、このクラスの藩士としては珍しく、3戸の分家・別家を立て、家禄を細分化してしまい槙三左衛門家は、着座家となることはなかった。
槙三左衛門家は、家禄が細分化されたが奉行の重鎮の家とされた。時として番頭(270石)まで班を進めたが、しばしば奉行職に名を連ねていた槙三左衛門家が残した越後長岡藩の制度・法制に関する史料が、現存しており、藩史の研究に寄与している。
[編集] 真木氏(真木小太夫家)
真木氏(真木小太夫家)は、真木三郎左衛門(槙惣右衛門)の叔父・真木小太夫重基を祖とする家系(1,700石)である。後に初代・真木小太夫は、脱藩していた真木三郎左衛門(槙惣右衛門)が帰参したためか、家禄の一部を返上した。初代・真木小太夫の跡式を相続した真木茂左衛門(500石)は、200石の加増を受け(計700石)となり、長岡藩の家老級または、これに近い重役に列したと想像されるが、その職名は未見である。直系子孫は罪により改易となるが、譜代の家柄であることを考慮され100石で家名再興となった。詳細は、上述の先法及び、[[真木氏 (牧野家重臣)]を参照のこと。
[編集] 稲垣氏(稲垣林四郎家)
稲垣氏(稲垣林四郎家)は、譜代大名となった稲垣氏から分家したもので、同族とは云え越後長岡藩の家老連綿となった稲垣氏から直接、分家したものではない。はじめ先法家の能勢氏の養子に出たが、稲垣に復して、1戸をたてたものである。世襲家禄は300石であったが、4代目のときに寄合組に列して、着座家とされた。藩の要職に就任して、400石から500石を与えられたこともあった。江戸時代後期に、庶子が召し出されて、総領分30石・新恩70石で、100石の別家を立てたため、世襲家禄を270石とした。北越戦争では、開戦派に属した。
[編集] 今泉氏
今泉氏の本姓は松平氏。十八松平家の一つ、長沢松平家の庶流の一つと推定されているが、牧野氏牛久保以来の家柄である。初期の重臣であった今泉竹右衛門(1,300石)及びその直系子孫は行方不明である。文献上の根拠はなく、推論の域を出ないが、初代忠成の跡式について、孫の忠盛(2代目忠成)とすることに反対した勢力であったため、後に粛正されたとする説がある。幕末まで重きをなした今泉氏(400石)は、今泉惣左衛門政盛(300石)を祖とするが、行方不明となった今泉竹右衛門家との関係は、不明な点が多い。長岡士族・今泉鐸次郎は、政盛の直系子孫で、大正から昭和中期にかけて、精力的に長岡の歴史を分析して、多くの著書を残した郷土史家である。他に今泉惣左衛門家が新恩を持って立てた小禄ながら大組入りした別家1戸と、今泉惣左衛門家の庶流と推察される小組・小禄(後に大組に昇格)の今泉氏1戸がある。
[編集] 栂氏
栂氏は、牛久保以来の家柄である。家禄300石であったが、延宝9年(1675年)に大組の藩士であった神戸七太夫が乱心して殺される。嗣子なく断絶するも、同年に100石で、家名再興となる。庶流は、栂野氏を称した。
[編集] 安田氏
安田氏は、上州浪人から、上州大胡在城期(1590年~1618年)の牧野氏に仕官したと推定される。また庶子に医師が出て、別家を立て本家を凌いだ。総領家は、2戸の分家を分出したほか、1戸の別家を立て、家禄の変動がめまぐるしいが200石を下回ったことはない。名医の出自であった別家には、300石(最高時、450石)が与えられ、その庶子が嘉永5年(1852年)家老連綿・山本氏の養子となった(山本義路)。
一方、幕末になると安田本家の安田鉚蔵は、家禄210石をたまわり台頭。明治元年(1868年)北越戦争にあたって藩内の恭順派の首領的存在となるが、河井継之助と対立して失脚する。
[編集] 深沢氏
深沢氏は、上州浪人から、上州大胡在城期(1590年~1618年)の牧野氏に仕官したと推定される。大坂夏の陣で、一番槍とされた。家禄300石。総領分50石・新恩50石で分家を分出して世襲家禄250石となる。寛保年間には、深沢後太郎は、家格以上の役職に就任したためか350石となる。他に小禄の深沢氏があるが、総領家の分家の分家となる末家である。また藩主・牧野氏が、越後与板藩に支藩を分出した際に、与板藩主・牧野康成(=武成)に小姓として、随従した深沢総領家の庶子は、康成の死に臨み殉死した。
[編集] 深津氏
深津氏は、譜代大名・本多氏15万石の重臣であった。主君の本多政利が、お家騒動により改易となったため、浪人となるも、長岡藩牧野氏に再仕官がかなったものである。世襲家禄は300石であったが、番頭などを勤めて330石から、350石を与えられていたこともあった。深津氏は分家の分出はしていない。
[編集] 新井氏
新井氏は、慶安5年(1652年)佐渡国・小比叡騒動のとき、江戸藩邸にあって、自ら急使に立ち、その対応が迅速で藩主牧野氏が面目をほどこしたので、一代限りではあったが、100石の加増を受け300石となった。
[編集] 倉沢氏
倉沢氏は、上野国沼田藩・真田氏の重臣であったが、同藩が改易となる前に浪人となっていたが、長岡藩主・牧野氏に再仕官がかなったものである。倉沢氏は、真田氏の故地である信濃国上田発祥である。現在でも上田・別所周辺には、倉沢姓が多くある。倉沢氏は兄弟で仕官がかない兄は、はじめ250石で召し出され、後に加増されて400石となる。弟は、300石で召し出された。また元禄11年(1698年)、倉沢又左衛門幸栄の父は、第3代長岡藩主牧野忠辰が嫡子・勝三郎(夭折)附きの家老となり、500石となったが、翌々年に失脚。500石の内、350石を家禄として、相続が認められた。また享保年間に50石の分家を分出したが、この分家(=倉沢喜藤次家と云う。異に喜惣次家とあるは誤記である)は漸次立身して、200石となった。その後、総領家は加増されて、400石となった。また倉沢又左衛門幸栄が孫の倉沢忠左衛門久勝は、者頭・足軽頭を勤めて、享保年間に当時としては異例の89歳まで存命していた。
[編集] 池田氏
池田氏は、織田家の家臣から、豊臣秀吉の重臣となり、小牧・長久手の戦いで討ち死にした池田恒興の弟、池田小左衛門正近が、牛久保牧野氏の寄騎となったのが始まりである。その総領の池田小左衛門成恒が、牧野氏の家臣(300石)・後に奉行となった。成恒は牛久保冨永口の対徳川戦において戦功があり、また父に先立って死亡した藩主・牧野忠成の嫡子・光成の守り役などを勤めた。藩主・牧野忠成の死に臨み殉死を願い出たが認められず、度重なる嘆願によりその死の2年後の明暦3年(1657年)にようやく殉死が認められて切腹した。
この家系は、50石の分家・池田彦四郎家を分出して、総領家の2代目池田小左衛門は250石となり奉行となった。しかし、その後に100石の減知を受け、長岡藩の元禄分限に池田総領家と思われる姓名はなく、後の宝永分限に200石として再登場する。池田氏は懲罰を受け100石を減知され、その後に無嗣廃絶により改易となったが家名再興を許されたとものと推察される。4代目の池田小左衛門が奉行として特別の功労があり、50石の加増受け、200石ながら、寄合組に列した。池田家は牛久保以来の名門の家系ではあるが、2回頓挫し、4代目が池田氏中興の祖のとなったが、藩内の大族となることはできなかった。
[編集] 根岸氏
根岸氏は、現、埼玉県行田市の郷士であった根岸作兵衛政重を祖とする。行田は忍藩領であり、江戸初期の藩主は大河内松平氏3万石であった。藩主松平信綱は、老中として島原の乱の功などにより、川越藩6万石に栄転したが、根岸氏はこれに随従しなかった。
長岡藩主2代目牧野忠成の相続の際に江戸での工作に尽力した特別な子細により、忠成の生母(長寿院)の遺言があり、作兵衛の子・根岸弥次右衛門(資章)が長岡藩主・牧野氏に200石で召し抱えられたものである。その後代々、弥次右衛門を称し江戸組に属し知行200石を受けた。
寛保元年(1741)の分限帳の弥次右衛門は250石留守居役に昇進したが、延享2年(1745)の分限帳にその名は無く、留守居役はそれまでの相役であった河田権左衛門と新たに同役見習となった山崎伊左衛門の名のみ見える(30年以上勤続で死去した為とみられる)。
しかし享和3年(1803)~文化6年(1809)には孫に当たる弥次右衛門が抜擢を受けて、御用人・中老と班を進められて、450石をたまわり着座家となった。その後、350石を家禄として相続が認められた。(根岸弥次右衛門家)
初代根岸弥次右衛門の2男の東左衛門(康資)は藩主への軍書講釈のために5人扶持で抱えられた。その講釈が評価され享保10年には35人扶持に加増の上で大組御番入りし藩士に採用された。この時、出仕の座席200石上座(番頭相当)仰せ付けられた。実は東左衛門は武蔵国埼玉郡種足村(現、騎西町・旧、忍藩領)郷士・田中甚左衛門4男で根岸弥次右衛門の養子。このため、願いにより旧姓田中に復姓。しかし、子孫は再び根岸姓を称して、初め35人扶持、のち38人扶持(格式200石上座)で弓道等の兵法関係の師範を務めた。(根岸勝之助家)
[編集] 贄氏
贄氏は、長岡藩牧野氏、成立前の重臣である。牛久保以来の家柄であり、現在でも全国的には珍しい姓であるが、三河ではそれほど珍しくない姓である。
牛久保贄氏は、疋田氏と同じく設楽郡発祥と推察されている。越後長岡藩主牧野氏の嫡家となる牧野氏が滅亡した翌年となる享禄3年(1530)、松平清康は、東三河を制圧した。松平清康が最後に残したのは、丘陵地帯となる奥三河の宇利城主熊谷氏であったが、この熊谷氏重臣に贄氏があり、彼等は主君滅亡後に今川氏を頼った。
牛久保贄氏も、この一族と見られているが、史料的な決め手はない。
大胡藩牧野氏の家老であった贄氏は、信濃・真田氏攻めで、軍令違反を犯して、徳川秀忠から、切腹を命じられたが、後の越後長岡藩主・牧野忠成が庇って出奔させた。その後については諸説がある。
[編集] 小林氏
小林氏は、上州浪人の本姓赤堀氏で、大坂の陣・武功組みであるが、詳細は、小林虎三郎を参照されたい。北越戦争では、恭順派に属した。大参事(=家老に相当)となった小林氏とは、異流の小林氏も長岡藩士に存在する。
[編集] 河井氏
河井氏は、近江国膳所藩より長岡藩に移籍してきた新参家臣である。幕末に家老となり北越戦争を指揮した河井継之助の直接の先祖は、はじめ長岡藩内の河井氏から30俵2人扶持で部屋住み身分のまま、小姓として召し出され、新恩により40石で別家を立てたと云う。またこれとは異流の牛久保以来の譜代・河井氏もある。詳細は(河井継之助/河井家の概要)を参照。
[編集] 三島氏
三島氏は、川島氏から、改姓したものである。川島氏の二代目は、支藩である与板藩士・小川氏から迎えられた養子であった。小川氏は喧嘩によって斬り殺されると云う事件があったが、川島氏は家禄100石となった。しかし総領家当主が、病気を苦に享保7年(1722年)に自殺する事件があり、減知となり、一時35石となっていた。明治維新後に、川島憶次郎が、三島憶次郎と姓を改めて、大参事(=家老に相当)となり、牧野頼母・小林虎三郎等と共に、荒廃した長岡復興に尽力した。
[編集] 保地氏
[編集] 原氏
[編集] 鬼頭氏
鬼頭氏は、本姓木頭氏であったが改姓。幕末・維新期には河井継之助の腹心の一人であった。北越戦争では開戦派。200石級の家柄であるが、奉行から番頭に抜擢されて300石をたまわったこともあった。
[編集] 小嶋氏
[編集] 山口氏
[編集] 大川氏
[編集] 大坂夏の陣の武功者たち
大胡藩主・牧野氏は、大坂夏の陣の勲功で3倍に領土を増やし、長岡藩主に栄転して、その後も加増を続けた譜代大名である。
大坂夏の陣によって、家禄を大幅に増やしたり、新規召し抱えがかなった藩士が、相当な数に及んだ。
関ヶ原の合戦後の大坂城主・豊臣秀頼は、65万石余の領地を持っていたに過ぎず、これを滅ぼすために、全国の諸大名を軍役で動員して、難攻不落の大坂城を攻略して、大きな犠牲を払うと、豊臣方を滅亡させて領地を没収したとしても、恩賞を与えるだけの領地が不足するので、徳川家康は、大坂攻めに慎重であったと云われている。そこで、城攻めにあたって、手柄をたてられそうな場所には、譜代大名を配置したとされるが、その恩恵を受けた一つが牧野家であった。
牧野家の家伝は、大坂の陣の武功者として、次の者の姓名をあげている。
稲垣平助、今泉竹右衛門、稲垣権右衛門、朝倉仁右衛門、疋田(匹田)水右衛門、武彌兵衛、今泉次郎作、三間喜兵衛、
山本才蔵、伊藤道右衛門、秋山長四郎、神戸彦右衛門、石垣忠兵衛、神戸安右衛門、望田善内、倉地呰右衛門、広中茂右衛門、由良作左衛門、真木金右衛門、山本隼之助、桑名甚八、長谷川権六
上記に姓名がなくても、深沢氏のように、大坂夏の陣・一番槍として、一躍、高禄を与えられている者もあるので、この家伝には、取りこぼしもあると思われる。初期の長岡藩主・牧野氏の家臣たちは、支藩に散らばっているいるので、上記の武功者たちの待遇と、末裔については、長岡藩文書の中に、大坂の陣の論功行賞を全て一つにまとめて、著した文献が現存していないので、支藩を含めて検討する必要性がある。
[編集] 倉地氏
倉地氏は、三河・牛久保以来の古参の家臣である。大坂夏の陣の武功者に倉地姓が見えるが、長岡藩のごく初期の文献にしか倉地氏をみることはできない。この倉地氏は、長岡藩主・牧野忠成の父である牧野康成が、戦国大名の今川氏の人質となっていたときに、牧野成定がこれを裏切り、徳川家康に寝返ったので、倉地次郎兵衛直克は、康成を救出。またその総領の倉地呰右衛門は、大坂夏の陣で武功をあげた。
このように倉地氏は、藩主牧野氏に尽くした譜代の家臣であるが、支藩を調べると信濃小諸藩・用人に、倉地呰右衛門の名を連綿と継承している藩士が見える。小諸藩では用人が家老に次ぐ重役である(小諸倉地氏については小諸藩の家臣団を参照されたい)。同じくその庶流と思われる倉地氏は、越後三根山藩の家老となっている。
倉地呰右衛門は、倉地弥次右衛門直秀と名を改めて、与板侯牧野氏・家臣筆頭となったが、牧野忠成の意向で長岡に帰参した。帰参に当たってその男子に父の家禄の一部、100石の跡式相続を許され、与板藩に残留した。この系が与板・小諸藩士倉地氏となった。 倉地氏は、江戸時代初期に、大きな家禄の分割があったため、家禄が減少したことで、大名・諸侯である与板藩主・小諸藩主となった牧野氏の家老の家柄にはなれなかったものと推察される。 また帰参した倉地弥次右衛門直秀の家督を相続した倉地氏は、旗本(幕末に三根山藩に昇格)の牧野氏6,000石の家老となった。余談であるが越後三根山に陣屋を持った旗本・牧野氏の重臣倉地百汲は、安政年間に、長岡に永住した俳人として著名である。
[編集] 真木(槙)氏(真木金右衛門家)
真木氏(真木金右衛門)は、牧野家の家伝、大坂夏の陣の武功者として、その姓名が見える。この系は、真木越中守定善の甥の家系で、長岡藩の物頭(者頭)であったが、与板侯・牧野康成の家臣(番頭級)となった。その後段々と立身して与板藩主・小諸藩主となった牧野氏の家老の家柄となった(槙権左衛門家)。小諸藩には、家老の別家となり、班を進めた真木水右衛門家があるが、同家には陰陽五行思想により、「金」より生じて「水」になったとして、水右衛門と称したする伝承を持つ。 槙権左衛門家が、長岡藩から小諸藩に添えられた付家老に指名されていたかどうかは、諸説がある。