益富城
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通称 |
大隈城 |
城郭構造 |
山城 |
天守構造 |
不明 |
築城主 | |
築城年 | |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 | |
遺構 |
搦手門(移築)、石垣、堀、曲輪 |
位置 |
益富城(ますとみじょう)とは、日本の城である。所在地は福岡県嘉麻市中益(旧嘉穂郡嘉穂町中益)。
[編集] 歴史
- 永享年期(1429年~1441年)、今川了俊の九州征伐の際に大内盛見が築城したといわれている。その後は交通の要衝(日田街道と長崎街道を結ぶ町だった)である大隈に築城された当城は争奪戦の的となり、永禄年期(1560年頃)には毛利元就が領有した(城番は杉七郎忠重)。
- 戦国時代末期には、古処山城を本拠とする秋月氏の支城の一つとなった。
- 安土桃山時代、豊臣秀吉による九州征伐で秋月氏が敗れた後は早川長政が城番となったのだが、関が原の戦いで西軍についた為、土地を没収された。その後は黒田氏の城となり、福岡藩の筑前六端城の一つとなった。
- 現在は一国一城令により壊され、城址となっている。
[編集] エピソード
- 豊臣軍が九州征伐で秋月氏が守る岩石城をわずか1日で陥落させた事により、秋月氏は当城を破却して本拠の古処山城へ退却した。が、翌日の夜、古処山城から見下ろした大隈は火の海であった。そのうえ夜が明けると益富城は見事に修復されていた(一夜城で有名。岐阜県の美濃攻めの一夜城とは違う)。実際は火の海にもなっておらず、村人が一斉に篝火を焚かせた物であり、城も村人から障子などを貼った物であった。更に、益富城に十分な水が溜まっているように見せかけるために白米を滝の如く流させたという話が残っている。(流した址も残っている)
これに騙された秋月氏は戦意喪失し、降伏した。 尚、この作戦に協力した村人に豊臣秀吉は陣羽織を与え、永世貢税を免除した。(現在も陣羽織は残っており、役場で保管されている)
[編集] 関連項目
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