盛力健児
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盛力 健児(せいりき けんじ 、本名は平川一茂、1941年5月29日 - )は、ヤクザ、指定暴力団・六代目山口組若中、盛力会会長、元二代目山健組舎弟頭補佐。
山健組出身で初代山健組では若頭補佐だったが、親分の組長・山本健一からの信頼は一番厚かった。 初代山健組当時、山健三羽ガラスと呼ばれ、組織の推進役を担っていたのが、健竜会会長・渡辺芳則(後の五代目山口組組長)、盛力会会長・盛力健児、健心会会長・杉 秀夫の3人だった。 いずれも山健組の気鋭の若手武闘派として、周辺でも注目の存在だった。
その山健組三羽ガラスの盛力が先頭を切って活躍ぶりを世間に見せ付けたのが「第3次大阪戦争」への参戦だった。 1978年7月11日、京都のクラブ「ベラミ」で二代目松田組 村田組 大日本正義団幹部の鳴海 清から、三代目山口組組長・田岡一雄が狙撃されたことから、松田組に対して山口組の熾烈を極めた報復攻撃が始まった。 山健組三羽ガラスの盛力は、山健組の大阪地区の責任者であった。 その盛力に「山健組の中では自分が先陣を切って松田組を壊滅させる」との決意があったとしても不思議ではなかった。 同年8月18日、山健組 盛力会幹部の2人が、大阪市住吉区の銭湯で松田組系幹部を射殺、報復の戦果を挙げた。 この事件に関連して、会長・盛力はじめ盛力会幹部ら7人が逮捕され、それぞれ6年から16年の懲役が打たれた。 なかでも最長の16年の刑を打たれたのが事件の首謀者とみなされた盛力だった。 服役中の1989年6月に五代目山口組の直参となり、出所後、五代目体制に現役復帰し活躍しているが、初代山健組当時から最高幹部として将来が嘱望されており、その実績とキャリアからも五代目山口組最高幹部への最有力候補と目されていた。