相良義滋
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相良 義滋(さがら よししげ、延徳3年(1491年) - 天文15年8月25日(1546年9月19日))は相良長毎の子。相良晴広の養父。初名は長唯。
戦国期の相良氏の家督は父・長毎が隠居した後、長唯(義滋)・瑞賢(長隆)の弟にあたる嫡出の相良長祗が継承した。しかしそれに異を唱えた長唯兄弟の叔父である相良長定が、長毎の死後の1525年に長祗の人吉城を攻略し、家督を簒奪。長祗を自害に追い込んだ。
1525年、その長定に対して長唯・瑞賢兄弟の報復が開始され、長唯の弟である瑞賢が相良長定を追い落とした。しかし瑞賢は人吉城に入ると、権力欲に駆られ還俗し長隆と名乗り、家督相続を企んだ。 今度は長唯と長隆の兄弟の争いとなり、長唯は一族の実力者の上村頼興に「頼興の息子・上村頼重を養子にすること」を条件に加勢を取り付け、最終的には長唯が当主となり、名を義滋と改め家督を継いだ。
家督相続後は肥後国内での勢力の拡大と安定化を図った。家中では上村頼興の意向を受け、養子の相良晴広の対抗馬になりうる一族の粛清を開始。1535年には頼興の弟である上村長種を殺害、そして上村長国の子で岡本城主である岡本頼春も殺害した。
義滋は智勇に優れ、一門衆の上村頼興の補佐のもと、分裂していた相良氏の統一に成功し、相良氏を戦国大名へと転身させた。また、明との貿易も行なって戦国大名としての基盤を固めた。
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