真里谷朝信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
真里谷 朝信(まりやつ とものぶ、? - 天文13年8月7日(1544年8月25日))は、真里谷氏(武田氏)の一族。真里谷信清の子ともその嫡男の真里谷直信の子ともいわれている。一説には里見義豊の義父であるという。
里見氏の内紛(天文の内訌)の際に、主君真里谷信保の命により自分の娘婿でもある里見義豊の救援に向かう。だが、義豊は里見義堯に討たれてしまい、朝信は対抗して安房天津城を占拠して城主となる。信保の死後の後継者争いでは、真里谷信応と結んだ信清の意向に反して、朝信は信応の庶兄真里谷信隆を支持して信応方についた里見義堯と再び争う。
1541年頃に里見義堯の重臣である正木時茂が天津城を攻めると、城は正木軍の攻勢を支えきれずに落城してしまい、朝信はかつての信清の居城であった上総小田喜城(後の大多喜城)へと逃れて、その城主となった。だが、その後も時茂の北上を食い止めることは出来ず、上総刈原(現在の千葉県いすみ市)の戦いにおいて時茂によって討たれて小田喜城は時茂によって奪われてしまった。
[編集] 関連事項
カテゴリ: 武田氏 | 戦国武将 | 1544年没 | 歴史関連のスタブ項目 | 人物関連のスタブ項目