里見義堯
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里見 義堯(さとみ よしたか、永正4年(1507年) - 天正2年6月1日(1574年6月19日))は里見氏の当主。父は里見実堯。母は佐久間盛氏(正木通綱の同族で、三浦・正木とも称したという)の娘。子に里見義弘がいる。正室は土岐為頼の娘。幼名は権七郎。
1533年、里見氏の家中で内紛(天文の内訌)が発生すると、義堯は重臣正木時茂と結んで宗家の当主里見義豊を殺害して当主となった。当時、関東では北条氏綱の勢力拡大が進んでいた。初め義堯は氏綱と結んでいたが、すぐにこれに対抗するために小弓公方の足利義明と手を結んで関東副将軍と称し北条方と対抗した。しかし、1538年に第一次国府台合戦で義明が氏綱に敗れて戦死すると、義堯は戦場から離脱して逃亡した。このとき、義堯は義明の戦死を知って、戦っても利なしと考えて逃亡したのである。このように、義堯は利に敏く、冷徹な武将であった。
義明の死後、義堯は下総や上総に積極的に進出し、上総の久留里城を本拠として里見氏の最盛期を築き上げた。それに対し、1552年に氏綱の後を継いだ北条氏康の策動によって、里見氏傘下の国人領主の大規模な離反が発生し、2年後には氏康と今川義元、武田信玄との間で三国同盟を締結された。このため、1555年頃には上総西部のほとんどが北条氏に奪われる事になった。この事態に対して義堯は北条方についた国人勢力の抵抗を鎮圧して奪われた領土の奪還を図りつつ、越後の上杉謙信と手を結び、あくまで氏康に対抗する姿勢を見せた。
1560年、氏康が里見領に侵攻して来ると、義堯は久留里城に籠もって抗戦し、上杉軍の援軍を得て大勝して反攻を開始して上総西部のほとんどを取り戻した。しかし1564年の第二次国府台合戦では氏康の奇襲の前に大敗を喫した。これにより、上総を失って里見氏は一時的に衰退したが、義堯は勢力を盛り返し、1567年、三船山の戦いで北条軍を破ってその地を取り戻した。その後は水軍を建造して、北条氏とあくまで戦う姿勢を示したという。
1574年、久留里城にて没した。義堯の死は、里見氏を大きく動揺させ、次第に衰退させてゆく遠因となった。
義堯は武将としての器量に優れ、常に関東の副将軍となる野望を抱いていたという。この義堯の存在のために、北条氏は義堯存命中は関東統一を果たすことは不可能だったという。
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