石川総慶
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 宝永元年12月5日(1704年12月31日) | |||
死没 | 明和元年6月30日(1764年7月28日) | |||
別名 | 石之助(幼名)、宗十郎(通称) | |||
戒名 | 厚仁日有総慶院 | |||
墓所 | 東京都北区田端の大久寺 | |||
官位 | 従五位下、主殿頭 | |||
藩 | 山城淀藩主→備中松山藩主 →伊勢亀山藩主 |
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氏族 | 石川氏 | |||
父母 | 父:石川勝之、母:柘植氏 養父:石川義孝 |
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妻 | 正室:久世重之の娘 側室:杉田氏、吉野氏(まん)、樋口氏 高島氏、服部氏、音羽氏 |
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子 | 石川総英、石川総尭、娘(松平頼済室) 娘(酒井忠大室)、娘(石川総弾室)、 娘(花園季文室) |
石川 総慶(いしかわ ふさよし)は、山城淀藩の第3代藩主。のちに備中松山藩主を経て、伊勢亀山藩の第2代藩主となった大名である。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 淀藩主時代
宝永元年(1704年)12月5日、山城淀藩の初代藩主(ちなみに伊勢亀山藩の初代藩主でもある)・石川憲之の長男・石川昌能の子・石川勝之の子として江戸で生まれる。昌能は憲之の後を継ぐはずだったが早世し、勝之も早世したため、淀藩の第2代藩主には昌能の弟・石川義孝が家督を継いで就任していた。しかし宝永7年(1710年)に義孝が死去したため、その養子として家督を継ぎ、淀藩の第3代藩主となった。
宝永8年(1711年)2月、備中松山藩へ移封となる。
[編集] 備中松山藩主時代
享保3年(1718年)12月、従五位下、主殿頭に叙位・任官する。延享元年(1744年)3月、板倉勝澄と交代する形で伊勢亀山藩に移封された。
[編集] 伊勢亀山藩主時代
相次ぐ移封や朝鮮通信使の饗応役を務めたことによる出費などで藩財政が窮乏し、倹約令などを出したが効果は無かった。明和元年(1764年)6月30日に江戸で死去。享年61。長男の石川総英が早世していたため、次男の石川総尭が後を継いだ。
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