石川総脩
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時代 | 江戸時代後期(幕末) | |||
生誕 | 嘉永5年(1852年) | |||
死没 | 慶応元年閏5月6日(1865年6月28日) | |||
別名 | 保之助(幼名) | |||
戒名 | 智明日賢光英院 | |||
墓所 | 東京都北区田端の大久寺 | |||
官位 | なし | |||
藩 | 伊勢亀山藩主 | |||
氏族 | 石川氏 | |||
父母 | 父:石川総紀、養父:石川総禄 | |||
兄弟 | 森川俊徳、石川総脩、石川成之 | |||
子 | 養子:石川成之 |
石川 総脩(いしかわ ふさのぶ/ふさなが)は、伊勢亀山藩の第11代藩主。
嘉永5年(1852年)、第9代藩主・石川総紀の子として生まれる。文久2年(1862年)に第10代藩主の石川総禄が死去したため、その養子として家督を継ぎ、第11代藩主となる。
隠居していた父・総紀と協力して藩政を行ない、桑や蚕の栽培、農業政策に尽力した。元治元年(1864年)の禁門の変では幕府側に与して山城八幡の守備を務めた。慶応元年(1865年)閏5月6日に死去。享年14。
後を養子の石川成之が継いだ。
著書に「勧農鎖言」がある。
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