神崎則休
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
神崎 則休(かんざき のりやす、寛文6年(1666年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は赤穂浪士四十七士の一人。通称は与五郎(よごろう)。大高・萱野と並んで浅野家中きっての俳人として知られた。
寛文6年(1666年)、津山藩森家家臣の神崎又市光則(直段奉行13石3人扶持)の長男として生まれた。母は下山六郎兵衛(森家家臣)の娘とされるが、年齢の計算が合わないため、恐らくこの女性は後妻で神崎は先妻の子であろうと思われる。その後、神崎は森家を浪人するが、いつ浪人したかには諸説ある。一番早いものには延宝7年(1679年)に男色を原因として親族の箕作義林が暴漢に襲われ、神崎がこの連中を切り捨てたため、藩を追われたという説。第二説は天和元年(1681年)に藩主森美作守長武の寵臣横山刑部左衛門が津山藩政において専横を極めた際に藩を追われたという説である。そして最後に元禄10年(1697年)6月20日に森家18万石が2万石に減封された際に藩からリストラされたという第三説。しかし神崎は元禄6年(1693年)の時点にはすでに浅野家に仕官していることが確認されているため、第三説はありえない。
いずれにせよ森家を離れて赤穂藩浅野家に仕官した神崎一家は、津山から赤穂へ移住し、このときに父又市が藩主浅野内匠頭の幼名又一郎を憚って半右衛門と改名し、神崎自身も赤穂で河野九郎左衛門の娘おかつを妻に迎えた。赤穂藩での神崎は徒目付5両3人扶持であり、しかも譜代の臣下ではない新参であるから最も下位の藩士の一人に過ぎなかった。しかし神崎は風流人で知られ、「竹平」という俳号を持つほど俳人としての才能があった。同じく俳人として著名な大高源五や萱野三平と並んで浅野家中三羽烏と呼ばれている。
元禄14年(1701年)3月14日、浅野長矩が吉良義央に殿中刃傷に及んだ際には神崎は赤穂にあり、大石内蔵助に神文血判を提出した。赤穂城開城後は那波に住み、ここで那波十景を詠んだ。元禄15年(1702年)4月、病にかかって寝込んでいた岡島八十右衛門にかわって江戸へ下向した。
このときの神崎の東下りについて有名な逸話がある。道中に丑五郎というヤクザ者の馬子が「馬に乗れ」とからんできたが、神崎が断っていると、腰抜け侍と見て調子に乗った丑五郎が「詫び証文を書け」と無茶苦茶をいってくる。神崎はここで騒ぎになるわけにはいかないと、おとなしくその証文を書く。これを見た丑五郎は笑って立ち去った。その後、赤穂浪士の討ち入りがあり、そのなかに神崎がいたことを知った丑五郎は己を恥じて出家の上、神崎を弔ったという話である。この話は大高源五の逸話にもある(こちらでは馬子の名は団蔵)。大高の詫び証文が三島の旧本陣世古家に所蔵されて現存している。神崎の逸話は、この大高の逸話が神崎のものと転化して伝わったと思われる(しかしながら大高の詫び証文は後世の人が作ったものであろうと言われている)。
江戸到着後は、扇子売りの商人になりすまし、下谷辺や麻布で「美作屋善兵衛」として開業。さらに8月頃には「米屋五兵衛」こと前原伊助と合流して「小豆屋善兵衛」と称して吉良邸のある本所近くで開業して吉良上野介の動向を探った。吉良邸討ち入りの際には表門隊に属する。本懐後は水野忠之の中屋敷に預けられた。元禄16年(1702年)2月4日、水野家家臣田口安左衛門の介錯で切腹。享年40。主君浅野長矩と同じ泉岳寺に葬られた。法名は刃利教剣信士。 辞世は「梓弓春近ければ小手の上の花をも雪のふぶきとや見ん」と伝わる。
なお神崎は四十七士の中でも随一の酒豪でもあった。