浪人 (武士)
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浪人(ろうにん)とは、古代においては、戸籍に登録された地を離れて他国を流浪している者のことを意味し、浮浪とも呼ばれた。中世においては、主家から離れた武士を意味し、牢人、浪士とも呼ばれた。敬称はご浪人様といった。
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[編集] 鎌倉・室町時代
武士が在地領主であった鎌倉時代・室町時代においては所領と職を失い浮浪する者たちをさした。この時代は浪人になっても各地で慢性的に小規模な戦乱が頻発し、大名は戦闘要員を必要としており、新たな主家を得る機会は少なくなかった。また、治安状況が悪かったために、浪人が徒党を組んで割拠し、野盗をしたり一揆を引き起こす者たちもいた。
[編集] 戦国時代
戦国時代になると、全国の戦国大名たちが大量の戦闘要員を必要としており、例え主家が滅びて浪人になっても再仕官する機会は多くあった。また、後の江戸時代と違って主従関係がルーズで、待遇に不満があれば主君を見限って自ら致仕して浪人になり、実力次第でよりよい待遇を求めて別の大名家に仕官する者たちもいた。この時代は、浪人になって幾つもの大名家を渡り歩く武士が多く、中には大名にまで出世する者もいた。藤堂高虎はその生涯に10の主家に仕えている。また、この時代は身分が未分化で武士から商人、農民になることも、その逆も容易だった。
[編集] 豊臣・大坂時代
豊臣秀吉が天下を統一して、戦乱の時代が終息すると、浪人をとりまく状況が変化した。各大名家は多くの家臣を召抱える必要がなくなってきた。関ヶ原の戦いで東軍の徳川家康が勝利すると西軍についた大名の多くが取り潰されるか、大幅な領地の減封を受け、これによって大量の浪人が生じた。更に徳川幕府は旧豊臣系大名の外様大名を中心に大名廃絶政策を取り、多くの大名が世嗣断絶、幕法違反などの理由によって取り潰され、これによっても大量の浪人が生じた。
[編集] 大坂の役
江戸時代に入ると大名家では家臣の数が過剰になり新規の召し抱えをあまり行わなくなった。また、儒教の影響で主従関係が固定化され、家臣が主君を見限って出奔した場合は、他の大名に「奉公構」を廻して再仕官の道を閉ざすことも行われた。黒田家を出奔した後藤基次は「奉公構」を出されて再仕官の道を断たれ、結局、大坂の役で豊臣方に参加している。 再仕官できない浪人が激増し、大坂の役が起きたときには、豊臣方に10万の浪人が寄り集まっている。
[編集] 徳川・江戸時代
大坂の役で多数の浪人が殺されたが、その後も幕府の大名廃絶政策によって浪人は増え続け、家光の晩年にはその数は50万人にも達したとされる。平和な時代となり、再仕官の道は限られており、町人や農民になる者、または海外へ出て傭兵になる者もいた(例:山田長政)が、大部分は浪人のまま困窮の中で暮らしていた。当初、幕府は浪人を危険視して、市中から追放や居住制限、再仕官の禁止など厳しい政策をとった。浪人たちはますます追い詰められ、由井正雪らの幕府転覆計画(慶安の変)を引き起こすに至る。
これによって、幕府は従来の政策を見直し、世嗣断絶の原因となっていた末期養子の禁を緩め大名の改易を減らし、浪人の居住制限を緩和し、再仕官も斡旋するようになった。しかし、これ以後も様々な理由で主家を召し放ちとなり浪人となる者は後をたたなかった。
[編集] 浪人の境遇
江戸時代の浪人は士籍(武士としての身分)は失っていたが、苗字帯刀は許されており、武士としては認知されていた。その日常生活は町人と同じく町奉行の支配下におかれていた。浪人の多くは借家住まいで貧困のその日暮らしの生活を余儀なくされていたが、中には近松門左衛門のように文芸の世界で成功した者や、町道場を開き武芸の指南で身を立てる者、寺子屋の師匠となり庶民の教育に貢献する者たちもいた。武芸者として有名な浪人に宮本武蔵がいる。
[編集] 幕末
幕末になると浪人たちは政治運動に積極的に参加した。また、郷士の坂本龍馬など自ら制約の多い藩から脱藩して浪人になり自由な立場で活躍する者たちも多く出た。一方で、町人や百姓など非武士身分の出身者が勝手に苗字帯刀して浪人を名乗る者も現れた。浪人の集団と言われる新選組はその構成員の多くが町人、百姓などの出身者である。