神田武夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
神田武夫(かんだ たけお)は、元南海の投手である。
[編集] 人物
京都商を経て南海軍に入団。背番号は19。なお京都商時代に出場した甲子園では 2度とも海草中に敗れており、特に1939年は嶋清一が大活躍した年である。
南海に入団した神田は一年目から先発としてチームを支え、25勝15敗、防御率1.59を記録。 チーム全体の43勝(41敗)の半分以上を稼ぎ、少ない投手陣の中で奮闘した。 翌年は20敗したものの24勝を挙げ、防御率も1.14を記録し、南海のエースとして活躍を見せた。
しかし神田は、実はプロ入り直前に肺病を患っており、病状は悪化していた。 そのような状態にありながらも試合登板を続けたことに、戦中の選手不足の問題や先発投手への過重負担、 明日をも知れなかった職業野球における選手の姿を垣間見ることができると思われる。
結局1943年は登板が無く、同年7月27日に死去。22歳という若さであった。
選手生活はわずか2年であったが、戦中の南海球団を支えた功績は大きく、病に冒されていた事が非常に悔やまれる。
実働2年 113試合 49勝35敗 716回2/3 防御率1.36 228奪三振
シーズン防御率 歴代19位(1942年 防御率1.14)