福原資孝
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福原 資孝(ふくはら すけたか、生年不詳 - 慶長19年2月26日(1614年4月5日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての那須氏家臣。大田原資清の次男。福原資郡の養子。幼名は孫太郎。初名は資則。号は是竹軒。受領名は安芸守。子に福原資広・資保がいる。
兄の大関高増、弟の大田原縄清とともに那須氏の実権を握っていた。天正13年(1585年)の薄葉ヶ原の戦いにおいて戦功を挙げる。天正18年(1590年)の小田原合戦では、豊臣秀吉に臣従して所領安堵を受け、家督を嫡男・資広に譲る。だが、翌年資広が病死したために、次男の資保を当主としてその後見を行った。関ヶ原の戦いでは徳川氏に加担して、後に資保は江戸幕府の旗本となった。