福岡空港ガルーダ航空機離陸事故
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福岡空港ガルーダ航空機離陸事故(ふくおかくうこうガルーダこうくうきりりくじこ)とは1996年(平成8年)に福岡県福岡市にある福岡空港を離陸しようとしたガルーダ・インドネシア航空のDC-10型機が離陸する途中に機長の不適切な判断で離陸を中止し、滑走路を飛び出した後炎上した事故である。犠牲者はこの種の事故としては3名と奇跡的に少なかったが、緊急脱出時の避難誘導に問題があったとされた。
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[編集] 事故の概略
1996年6月13日、福岡空港からインドネシア・バリ島デンパサールを経由し、同国の首都ジャカルタに向かう計画であったガルーダ・インドネシア航空865便(DC-10-30、機体記号PK-GIE)が、午後12時8分に滑走路16を離陸滑走中に右翼第3エンジンが故障した。機長は離陸中止を決断し実行したが、すでに機体が僅かに上昇しており、滑走路内で止まりきれずオーバーランし滑走路端の緑地帯で擱座した。
擱座した際の衝撃で右翼のランディング・ギア(車軸)が燃料タンクを貫通したために炎上した。この事故で乗員15名、乗客260名の合わせて275名のうち乗客3名が死亡し、乗員2名、乗客16名、計18名が重傷、91名が軽傷を負った。また、救助活動や消火活動に従事していた消防士のうち52名が火傷した。
[編集] 事故の原因
事故の引き金になったエンジン故障であるが、高圧タービンブレードが疲労により破断したことが原因であった。この種類の疲労亀裂は、通常の検査方法では発見するのが難しいものであった。またブレードは製造メーカーのジェネラル・エレクトリック社が推奨する廃棄の目安となる使用サイクルを超過していたという。
日本の運輸省事故調査委員会(当時)は、1997年11月20日に報告書を公表し、離陸を中断した機長の状況判断が適切でなかったとした。機長は離陸を中断しなければ空港周辺にある建物に衝突するおそれがあるから離陸中断を決意したと証言した。これは離陸した滑走路から先に山並みがあり、瞬間的に飛び越せないと判断したと思われるが、離陸中断をした時点では離陸中断するかどうかの最終判断ポイントであるV1(279Km/h)を超過していたため、そのまま上昇してから緊急着陸したほうが無事に生還できる可能性が高かった。そのため本事故のように、適切でない判断が滑走路を飛び出し炎上する結果となったといえる。
犠牲者3名はそれぞれ座席番号34K、35K、35Jと機体右窓側に着席していたが、34K、35Kの2名については右側ランディング・ギアが胴体を直撃した衝撃で即死しており、35Jの乗客は気を失い焼死したと推測されている。そのほかの乗客は機体が全焼するまえに脱出することに成功したが、脱出時に客室乗務員による避難誘導がなかったか十分に行われなかったとの指摘が多くの乗客らからあがった。これは乗客のほぼ全てが日本人であり、一部の客室乗務員の呼びかけが乗客に十分に伝わらなかったものと報告書は推測している。しかしながら、乗客の多くから乗員が乗客よりも先に脱出したとの批判は根強かった。また事故機に搭載された「安全のしおり」は英語とインドネシア語の標記のみであり(イラストは入っていたと思われる)、脱出時に非常口の位置を知ることが出来ずに混乱を生じたという指摘もある。
なお、事故機の垂直尾翼が障害物となったため、福岡空港は撤去が完了するまで閉鎖された。
[編集] 余談
事故機は、福岡空港南側に位置する福岡県道45号福岡空港線を横切った。事故発生直後の報道で「県道45号を走行していた、車数台、トラック1台が巻き込まれた」との誤報があった。
[編集] 参考文献
- デビッド・ゲロー 「航空事故」(増改訂版) イカロス出版 1997年 246頁~247頁