種子島時尭
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種子島 時尭(たねがしま ときたか、1528年(享禄元年) - 1579年10月21日(天正7年10月2日))は、島津氏の家臣で種子島の領主。種子島恵時の子。妻は島津貴久の妹。
種子島氏は南北朝時代から島津氏に属し、時尭は種子島氏の第十四代領主(島主)。
1543年、ポルトガル商人が乗った中国船が種子島に漂着。このとき、好奇心旺盛な時尭は、鉄砲の威力を見て即座に2000両の大金を支払い二挺を購入。そして、鍛冶職人八板金兵衛に命じて、鉄砲を分解させて調べさせ、鉄砲製造に成功する(もう一丁は島津氏を通して、将軍足利義晴に献上)。これに因んで、鉄砲は種子島銃とも呼ばれ、戦国時代に大きな影響を及ぼす事になる。
1555年には島津貴久に従い大隅国攻めに参加。なお、時尭と貴久の妹の間にできた娘、妙蓮夫人は、貴久の嫡男・島津義久に後妻として嫁いでおり、のちに国分舞鶴城の女城主となる三女亀寿を生む。京都の本能寺と鹿児島福昌寺跡、国分遠寿寺跡に、妙蓮夫人の墓と供養塔が現存。
一方、このようなエピソードも伝えられている。時尭と先述の時尭夫人は男子に恵まれず、当時島津氏と争っていた禰寝氏から姫を密かに迎えて側室にしていた。その姫との間に男子が生まれたのを時尭はひた隠しにしていたが、時尭夫人の知るところとなり、怒った時尭夫人は、娘二人を連れて種子島を出て鹿児島に帰ってしまったという。
1560年に家督を長男時次に譲るが、2年後に7歳で早世したため家督に復した。後に次男の久時が家督を継いだ。久時は島津義久の加冠により元服、後に義久に従い数々の軍功を得て家老となり、江戸以降も種子島家は代々家老を出す家柄となった。