穴穂部間人皇女
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穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ、生年不詳 - 推古29年(621年))は飛鳥時代の皇族。欽明天皇の皇女。母は蘇我稲目の娘小姉君。同母兄に穴穂部皇子。異母兄の用明天皇皇后となり厩戸皇子(聖徳太子)、来目皇子、殖栗皇子、茨田皇子を生む。用明天皇崩御後は聖徳太子の異母兄、田目皇子に嫁し佐富女王を儲ける(『上宮記』による)。穴太部間人王、孔部間人公王、間人穴太部王、鬼前太后とも。なお、間人(はしひと)の名を持つ皇女は別にもう一人おり、こちらは単に間人皇女(はしひとのひめみこ)と呼ばれている。―「 天智天皇4年2月25日(665年3月16日))は飛鳥時代の皇族。間人大后とも。孝徳天皇の皇后。父は舒明天皇、母は皇極天皇(斉明天皇)。天智天皇の同母妹、天武天皇の同母姉である。」
用明天皇皇后であった時に、厩の戸口で後に聖徳太子と呼ばれる厩戸皇子を出産したという『日本書紀』の逸話は有名だが、これは中国に伝来したキリスト教の異端派である「景教」(ネストリウス派)がもたらした新約聖書の福音書にあるキリストの降誕を元にしたとの説があるなど、史実かどうかを疑われている。実際厩戸の由来は地名によるとの説もある。
京都府京丹後市(旧丹後町)にある「間人(たいざ)」という地名は、穴穂部間人皇女にちなむものと伝えられている。穴穂部間人皇女は蘇我氏と物部氏との争乱を避けてこの地に身を寄せ、京に戻る際に自らの名を贈ったが、人々は皇后の名前をそのまま呼ぶのは恐れ多いとして、皇后が退座したことより「たいざ」と読むことにしたという。ただし、記紀などには穴穂部間人皇女が丹後に避難したとの記述はない。
カテゴリ: 飛鳥・奈良時代の皇族 | 621年没