紀大人
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紀 大人(き の うし、生年不明 - 天武天皇12年(683年)6月2日?)は、日本の飛鳥時代の人物である。旧仮名遣いでの読みは同じ。姓(カバネ)は臣、後に朝臣。671年に御史大夫、672年の壬申の乱のとき大友皇子(弘文天皇)側の重臣だったが、乱後罰されなかった。贈正三位。
天智天皇10年(671年)1月5日に、大友皇子(弘文天皇)が太政大臣に、蘇我赤兄が左大臣に、中臣金が右大臣に、蘇我果安、巨勢人、紀大人が御史大夫に任命された。
11月23日、大友皇子と上記の左右大臣、御史大夫は、内裏の西殿の織物仏の前で「天皇の詔」を守ることを誓った。すなわち、大友皇子が香炉を手にして立ち、「天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば必ず天罰を被る」と誓った。続いて五人が順に香炉を取って立ち、「臣ら五人、殿下に従って天皇の詔を報じる。もし違うことがあれば四天王が打つ。天神地祇もまた罰する。三十三天、このことを証し知れ。子孫が絶え、家門必ず滅びることを」などと泣きながら誓った。ここでいう天皇の詔の内容ははっきりしないが、天智天皇の死後大友皇子を即位させることだと考えられている。
29日に五人の臣は大友皇子を奉じて天智天皇の前で盟した。内容は不明だが、前の誓いと同じだと思われる。
天智天皇が死ぬと紀大人は大友皇子を支える重臣になったが、『日本書紀』は続いて起きた壬申の乱で紀大人の活動について触れない。蘇我果安と大友皇子が自殺し、乱後の処分で中臣金が死刑、蘇我赤兄と巨勢比等(巨勢人)が流刑となったのに、紀大人については次の705年の『続日本紀』の記事まで何も記されない。
没年については「紀氏系図」に天武天皇12年(683年)6月2日とある。しかしまた『続日本紀』慶雲2年(705年)7月19日条の、紀麻呂が死んだことに付随する説明に、「近江朝の御史大夫贈正三位大人の子」とある。この記事からは、大人は正三位の官位が施行された701年以降、この705年までの間に死んだと推測できる。
贈位を受けたことからみて、大人は罪人と扱われていなかったと考えられる。「近江朝の御史大夫」を最後に公務から退いたとも推測される。大人が処罰されなかった理由については、同族の紀阿閉麻呂の活躍に免じて許されたのではないかとしたり、大海人皇子に内通していたのではないかと疑ったりする説がある。