巨勢人
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巨勢 人(こせ の ひと、生没年不明)は、日本の飛鳥時代の人物である。名は比等、毘登とも書く。旧仮名遣いでの読みは同じ。姓(カバネ)は臣。天智天皇に仕えて671年に御史大夫となった。672年の壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)の将軍になったが、内訌をおこし、乱後は流罪になった。
巨勢氏は飛鳥時代の有力氏族である。巨勢人は、天智天皇10年(671年)1月2日に、蘇我赤兄とともに殿の前に進み、賀正のことを奏した。このとき位は大錦下であった。5日に、蘇我果安、紀大人とともに御史大夫になった。同日に大友皇子が太政大臣、蘇我赤兄が左大臣、中臣金が右大臣に任命されており、御史大夫はこれに次ぐ重職であった。
11月23日に、大友皇子を含めて上に挙げた六人の重臣は、内裏の西殿の織物仏の前で誓盟を交わした。まず大友皇子が手に香炉をとって立ち、「六人心を同じくして天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば必ず天罰を被る」と誓った。あとの五人も香炉を手にして次々に立ち、「臣ら六人、殿下に従って天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば四天王が打つ。天神地祇も誅罰する。三十三天はこのことを証し知れ。子孫が絶え、家門が滅びる」などと泣きながら言った。29日に五人の臣は大友皇子を奉じて天皇の前で誓った。以上の『日本書紀』の記述では「天皇の詔」の具体的内容が明らかにされないが、一般には大友皇子を次の天皇に擁立することと理解されている。
29日に五人の臣は大友皇子を奉じて天智天皇の前で盟した。内容は不明だが、前の誓いと同じだと思われる。
12月3日に天智天皇は死んだ。吉野宮に去った大海人皇子は、翌年の6月22日に反乱に踏みきり、美濃国の不破に兵を集めてそこに移った。山部王、蘇我果安、巨勢比等(人)は、数万の兵力を率いて大海人皇子を討つべく不破に向けて進発した。しかし7月2日頃、犬上川の岸に陣を敷いたとき、果安と比等は山部王を殺した。その理由は『日本書紀』に記されない。混乱のため進軍が滞り、果安は帰ってから首を刺して死んだ。比等の行動は不明で、指揮を執り続けたのかどうかもわからない。
壬申の乱が大海人皇子の勝利で終わってから、大納言巨勢臣比等と子孫は配流された。結局内訌の性質はわからないながら、少なくとも比等の側に大海人皇子に靡くような行動はなかったのであろう。ここにある「大納言」は、書紀の編者が御史大夫を編纂当時の官職名に改めたものと考えられる。
子に巨勢奈弖麻呂と巨勢郎女があり、奈弖麻呂は後に官人として立ち、巨勢郎女は大伴安麻呂と結婚した。安麻呂は壬申の乱で大海人皇子について活躍した人物だが、結婚と乱や配流との時間的前後関係は不明である。