花巻城の夜討ち
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花巻城の夜討ち(はなまきじょうのようち)とは、安土桃山時代の慶長5年9月20日_(旧暦)(西暦1600年10月)に陸中国(当時は陸奥国)稗貫郡花巻城(岩手県花巻市花城町)で戦われた戦い。花巻城における南部藩のその後を左右した一戦である。
豊臣氏の奥州仕置によってこの城や周辺を支配していた、稗貫氏は没落した。その後、この地には豊臣氏の代官浅野重吉が支配していた。和賀広忠・義忠兄弟が城の奪還を目論み蜂起するも失敗に終わる。鎮圧後は南部氏領となり、城代には北信愛・秀愛親子が配された。
1598年に秀愛が亡くなるが父の信愛が継いだ。
関ヶ原の戦いで南部氏は山形地方に出陣した。この機に乗じて和賀氏が伊達氏の援助で立ち上がり、九月二十日夜、花巻城を襲撃した。和賀勢の兵は五百から一千である。これに対して花巻城は主力が田瀬方面に向かい手薄な状態で三の丸、二の丸は破られた。一揆軍は本丸に迫り、御台所前御門を挟んで攻防が続く。城を守ったのは侍ばかりではなかった。花巻城下の農民たち、小姓たちのほか仲居の「浦子」、談義所の「松」もなぎなたを振るうなど活躍した。しかし、それでも南部勢の兵は少数であった。
夜間は、敵か味方を区別するために足元を見たとされている。当時、城は北上川や堀に囲まれ、一揆軍はそこを渡った際に汚れるためとされている。北上川は現在とは違い、城の北側を流れていたとされる。
翌朝になり主力が戻り盛岡から援軍がやってきて松斎は一揆軍を撃退した。
この戦で南部家の稗貫郡(当時の稗貫郡は花巻市や北上市の北部を含んでいる)・和賀郡の支配は決定的となり、この地は盛岡藩の礎となった。