一揆
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一揆(いっき)とは、日本において何らかの理由により心を共にした共同体が心と行動を一つにして目的を達成しようとすること、またはそのために盟約、契約を結んで、政治的共同体を結成した集団及び、これを基盤とした既成の支配体制に対する武力行使を含む抵抗運動。
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[編集] 概要
『孟子』に由来する言葉で、江戸時代になると幕府に公認された既存の秩序以外の形で、こうした一揆の盟約による政治的共同体を結成すること自体が禁じられるようになるため、近現代の日本では一揆自体があたかも反乱、暴動を意味する語であるかのように誤解されるようになった。そのため日本の一揆が英訳されて海外に紹介されるに際しても、 riot , revolt といった暴動や反乱を意味する語として訳されるのが一般化してしまった。近世の百姓一揆も peasant uprising と英訳されて紹介されているが、現実には peasant の意味する零細な小作人だけによるものではなく、むしろ村落の指導的な立場に立つ裕福な本百姓らによって指導されており、彼らはむしろ英語で農場経営者を指す語である farmer と訳すのがふさわしい事を考慮すると、これも歴史的事実に即した英訳とは言えない。同様に、例えばミュンヘン一揆のように世界史における庶民や民衆運動による反乱、暴動も日本語訳されるときに一揆の語を当てることが慣用化している面があるが、これも中世の日本の一揆とは似て非なるものと言わざるを得ない。
確かに一揆が反乱的、暴動的武力行使に踏み切ることもあるが、こうした武力行使が一揆なのではなく、これを行使する「盟約に基づく政治的共同体」そのものが一揆なのである。
室町・戦国時代を中心とした中世後期の日本社会は、下は庶民から上は大名クラスの領主達に至るまで、ほとんど全ての階層が、自ら同等な階層の者と考える者同士で一揆契約を結ぶことにより、自らの権利行使の基礎を確保しており、正に一揆こそが社会秩序であったと言っても過言ではない。戦国大名の領国組織も、正に一揆の盟約の積み重ねによって経営されていたのである。例えば戦国大名毛利氏の領国組織は、唐傘連判状による安芸国人の一揆以外の何者でもなかった。そのため、一揆が原因になることもあるが、政権の転覆を図る反乱、暴動、クーデターなどとは本来ははっきりと区別されるべき語である。
このように、実際に一揆の盟約によって秩序が達成されていた中世後期から、表向きは一揆が禁止されていた中で実際には百姓身分の権利行使運動として恒例化していた江戸時代のいわゆる百姓一揆の時期を経ることで、現代では一揆の本来の意味は忘れられ、理解されがたくなってしまっている。そのため、戦国大名毛利氏を成立させた毛利元就の生涯を描いたNHK大河ドラマ『毛利元就』において、元就が安芸国人の国人一揆を結ぶ場面で一揆の語の使用が避けられて、「国人領主連合」なる一種の現代語訳が用いられた例もある。
また、中世後期の一揆の盟約による政治的共同体が武装していたことから武装勢力の蜂起の意味合いを強く想起する向きもあるが、この時代、自検断権に基づいて、ほとんど全ての階層の共同体が軍事警察力と司法権の行使を認められ、その達成のための保証となる武装は当然であったことを忘れてはならない。
特に日本が明治期以降の近代に入り、江戸時代が最も近い前近代の「歴史」となってからは、一揆は「百姓一揆」を指すような印象があるが、前述のように表向きは一揆の盟約が禁止されていながらも、百姓身分の権利行使の慣例として現実的には認めざるを得なかったという、現実と建前の著しく乖離した構図を持っていたこの時代の一揆をもって、日本の歴史的一揆の典型とみなすべきではないであろう。この表向きの一揆の盟約の禁止下で行われた百姓一揆は、その建前上の性格ゆえに土寇(どこう)とも漢語表記された。
一揆の盟約を結ぶに際しては、神前で宣言内容や罰則などを記す起請文を書いて誓約を行い、紙を焼いた灰を飲む一味神水と呼ばれる儀式が行われた。
日本では、史学界で階級闘争史観が支配的だった時代の「一揆は強者たる武士からの抑圧に対する、弱者たる民衆の決死の反抗であり、平等意識のもとで強固な団結力を持っていた」とみなす一揆観が、いまだに一般市民レベルでは普及しているが、上記のような事情を鑑みると、その一揆観は一揆のごく一部の相を見て創られたものに過ぎない。実際の一揆は、大名層からの抑圧に関係なく結ばれることも多く、また、一揆内での主導権を巡る派閥抗争も耐えなかった。こうした一揆内の派閥抗争を一揆内一揆と呼ぶことがあり、越前一向一揆におけるものが有名である(下間頼照を参照)。
[編集] 形態と歴史
[編集] 形態
- 土一揆
- 徳政一揆
- 馬借一揆
- 国一揆
- 広範な地域の共同であるもの
- 荘家一揆
- 一向一揆
- 百姓一揆
- 世直し一揆
[編集] 歴史
室町時代から江戸初期までの社会用語としては、神社勢力が強訴などの要求を行うための武力である僧衆(江戸時代に僧兵と呼ばれる)も含め、中央もしくは地方政権から非公認の武装勢力そのもの、もしくはそれらが何らかの主張のもと既成の支配体制に対して武力行使を含む抵抗運動を展開している状態を指し、室町時代のそれを国一揆(くにいっき)と言う。
通説的には惣領制が崩壊し、庶子家が独自の動きを取り始めると一族一揆を結ぶことで庶子家との繋がりを維持したが、やがて地縁による国人一揆へと発展したと言われるが、必ずしもそのように単純に移行した訳ではない。
一般的には血統的正統性や圧倒的な武力を持つリーダーが存在せず「連判状」はんせいに代表される一揆契状に見られるように、局地的には全参加者が平等で民主的な合議制の場合が多く、それ故に迅速で統一的リーダーシップが存在せず、大部分は一時強勢を誇っても内部分裂等で弱体化し、個別に撃破されるケースがほとんどであった。しかし、中には守護など上位者が、地域の中小武士に斡旋して一揆を組織させ、実質上の家臣団として編成する例も見られる。
南北朝時代から室町時代には、関東地方で武蔵七党など中小武士団による白旗一揆、平一揆などの国人一揆が盛んに結ばれる。やがて同属集団である国人一揆から地域集団である国一揆へと主体が移り変わる。加賀国(石川県)では、室町時代に応仁の乱で東軍に属した守護の富樫氏を追放し、戦国時代まで百年近くに渡って一揆勢が共和国的な体制を維持していた最大にして唯一の成功例とも言える。この場合も周辺諸国の事情がそれを許しただけであり、現に事情が変われば瞬く間に内部分裂が起こり、織田信長と対立して敗北した。
江戸時代には幕府が一揆を禁止し1637年の島原の乱以降は一揆は沈静化し、強訴や逃散など百姓一揆と呼ばれる闘争の形態が主流となる。江戸時代後期の天明年間、天保年間には再び広域の一揆が多発する。幕末には世直し一揆、明治には新政府の政策に反対する徴兵令反対一揆や地租改正反対一揆が起こる。
[編集] 一揆の事例
- 中世
- 徳政一揆
- 戦国・安土桃山時代
- 江戸時代
- 1608年(慶長13年):山代慶長一揆
- 1637年(寛文):天草一揆(島原の乱)
- 1677年(延宝5年):郡上一揆
- 1686年(貞享3年):貞享騒動(加助騒動)
- 1761年(宝暦10年):上田騒動
- 1768年(明和5年):新潟明和騒動
- 1771年(明和8年):虹の松原一揆
- 1786年(天明6年):宿毛一揆
- 1793年(寛政5年):武左衛門一揆
- 1814年(文化11年):北越騒動
- 1825年(文政8年):赤蓑騒動
- 1831年(天保2年):長州藩天保一揆
- 1836年(天保7年):甲斐一国騒動
- 1856年(安政3年):渋染一揆(昭和に誤って一揆とされたが実は強訴である)
- 1847年(弘化4年):三閉伊一揆
- 近代
- 1873年(明治6年):筑前竹槍一揆
[編集] 関連項目
- 徳政令 - 私徳政
- 国人
- 地侍
- 傘連判状(からかされんばんじょう)
- 一向宗
- 根来法師 - 根来衆
- 佐倉惣五郎 - 江戸時代の百姓一揆の指導者、後に佐倉義民伝として歌舞伎となる。
- ええじゃないか - 自由民権運動
- 強訴
- 打ち壊し
[編集] 関連書籍
- 『一揆』勝俣鎮夫 岩波書店 ISBN 4-00-420194-2
- 『百姓一揆事典』深谷克己 監修 民衆社 ISBN 4838309120
- 『百姓一揆とその作法』保坂智 吉川弘文館 ISBN 4642055371
- 『刀狩り 武器を封印した民衆』藤木久志 岩波新書 岩波書店 2005年 ISBN 4-00-430965-4 C0221
- 『黒田悪党たちの中世史』新井孝重 日本放送出版協会 2005年 ISBN:4-14-091035-6