葛井寺
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葛井寺 | |
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![]() 本堂 |
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所在地 | 大阪府藤井寺市藤井寺一丁目16番21号 |
位置 | 北緯34度34分12.67秒 東経135度35分47.60秒 |
山号 | 紫雲山(しうんざん) |
宗派 | 真言宗御室派 |
本尊 | 十一面千手千眼観世音菩薩(国宝) |
創建年 | (伝)神亀2年(725年) |
開基 | (伝)行基、聖武天皇(勅願) |
正式名 | |
別称 | 藤井寺、剛琳寺 |
札所等 | 西国三十三箇所5番 河内西国三十三箇所特別客番 |
文化財 | 乾漆千手観音坐像(国宝) 四脚門(西門・重要文化財) |
葛井寺(ふじいでら)は、大阪府藤井寺市藤井寺一丁目にある真言宗御室派の寺院。藤井寺、剛琳寺とも称する。山号は紫雲山。本尊は千手観音。西国三十三箇所第5番札所。
目次 |
[編集] 起源と歴史
寺伝では神亀2年(725年)、聖武天皇の発願で行基が創建し、古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺)の勅号を得たとされ、平安時代になって平城天皇の皇子・阿保親王が再興したとされている。近世の地誌類や再興勧進帳でも以上の寺伝を踏襲しているが、実際は百済王族の子孫である帰化人系氏族葛井(藤井)連(ふじいのむらじ)の氏寺として、8世紀中頃に創建されたと推定される。なお、平安時代初期に寺を再興したと伝えられる阿保親王の母も藤井氏である。
中世以前の沿革については史料が乏しく、必ずしも明確でないが、本尊千手観音坐像は奈良時代の作品であり、境内から奈良時代の古瓦が出土することなどから、創建が奈良時代・8世紀頃にさかのぼることは間違いない。境内出土の瓦の1つに久安3年(1147年)の銘があり、その頃に造営事業が行われたことが推定される。平安時代後期から観音霊場として知られるようになり、西国三十三所観音霊場が成立すると、その一つに数えられるようになった。
永長元年(1096年)には、大和国賀留の里の住人・藤井安基が、荒廃した伽藍を修理したと伝える。南北朝時代には楠木正成が陣をしいたことがあるなど、たびたび兵火にさらされた。
当寺の伽藍は東西2つの三重塔をもつ薬師寺式伽藍配置であったが、明応2年(1493年)の兵火と永正7年(1510年)で堂塔を失い、現存する建物は近世以降の再建である。
[編集] 建築物
- 本堂 - 江戸時代、宝暦3年(1753年)上棟の棟札があり、竣工は安永5年(1776年)である。
- 南大門 - 寛政8年(1796年)の上棟、寛政12年(1800年)頃の竣工。入母屋造の楼門(2階建て門)である。
- 四脚門(西門、国の重要文化財) - 桃山時代、慶長6年(1601年)豊臣秀頼によって再興された。切妻造、本瓦葺。
他に、阿弥陀二十五菩薩堂、大師堂、護摩堂などが建つ(いずれも江戸時代)。
[編集] 文化財
[編集] 国宝
- 乾漆千手観音坐像(十一面千手千眼観世音菩薩像)
- 8世紀半ばごろの作。大陸から伝来した脱活乾漆法(麻布を漆で貼り重ねて像の形をつくる)で造られ、像の高さは約130cm。合掌する2本の手を含め1041本(大40本、小1001本)の手を持ち、掌には眼が描かれていた痕跡がある。合掌手以外の1,039本の手は、像の背後に立てた2本の支柱に打ち付けられており、像本体とは離れているが、正面から見ると像本体から千手が生えているように見える。日本に現存する千手観音像としては最古のものの一つ。彫像の千手観音像は40本(合掌手2本を合わせて42本)の手で「千手」を代表させるものが多く、本像のように実際に千本の手を表現する千手観音像は少ない(本像のほかには唐招提寺金堂像などがある)。毎月18日以外は公開されない秘仏。
[編集] 重要文化財
- 四脚門(西門)
[編集] その他の文化財
- 木造聖観音菩薩立像 - 平安時代。本尊の右に安置。
- 木造地蔵菩薩立像 - 平安時代。本尊の左に安置。
- 石灯籠 - 鎌倉時代。本堂裏の庭園にある。
- 金銅宝塔(舎利塔) - 鎌倉時代
[編集] 行事
[編集] 千日まいり
8月9日の千日会式の日の参詣をいう。この日に参詣すると四万六千日の功徳が得られるとされ、多数の参詣者が訪れる。また、本尊の千手観音像が特別に開帳される。
[編集] 観音会
毎月18日。千手観音像が開帳される。とくに1月18日は初観音会と称する。
[編集] 所在地
〒583-0024 大阪府藤井寺市藤井寺一丁目16番21号
[編集] 交通
[編集] 関連項目
[編集] 周辺情報
- 野中寺
- 野々上八幡神社
- 辛国神社
- 古市古墳群
- 仲哀天皇陵
- アイセルシュラホール
[編集] 参考文献
- 国宝葛井寺千手観音(特別展図録)、大阪市立美術館、1995