井真成
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井 真成(せい しんせい、799年 - 834年)は近年中国の古都西安で墓誌が発見された唐代の日本人留学生の名である。日本名は不明であり、日本風に「い の まなり」と呼ばれることもある。
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[編集] 墓碑の発見
2004年10月12日、中華人民共和国陝西省西安市の西北大学が西安市内から日本人遣唐留学生の墓誌(縦39.5×横39.5×厚さ10センチ)が発見されたと発表した。
この墓誌は西安市内の工事現場で発見され、一度個人の所蔵となったが、西北大学付属博物館が収集したものである。墓誌には
- 姓は井、字(あざな)は真成、国は日本と号す。生まれつき優秀で、国命で遠くにやってきて、一生懸命努力した。学問を修め、正式な官僚として朝廷に仕え、活躍ぶりは抜きんでていた。
- ところが思わぬことに、急に病気になり開元22年(734年)の1月に官舎で亡くなった。36歳だった。
- 皇帝は大変残念に思い、特別な扱いで埋葬することにした。体はこの地に埋葬されたが、魂は故郷に帰るにちがいない
- (氣賀澤保規明治大学教授(中国史)による墓誌の抄訳 )
と記され、開元22年(西暦734年)正月死去したので尚衣奉御の官を贈られたなどと書かれている。これは考古学的に中国で発見された最初の日本人の墓誌であり、現存の資料のなかで日本の国号を「日本」と記述した最古の例である。
[編集] 墓誌のナゾ
- 墓誌は石面一面に書かれているのが普通だが、この墓誌では左1/4が空白になっている。
- 表記形式が一般のものと若干異なる。
- 官歴が記されていないのに、死後高位を賜っている。
- 発見が科学的調査によるものではなく、建設工事現場で地下から掘り出され人から人の手に渡ったため、いつ、どこで掘り出されたものか不明である。
[編集] その研究
研究によれば、井真成は養老元年(717年)多治比県守を大使とする遣唐使とともに渡唐したとされ、阿倍仲麻呂と同期である。733年には多治比広成を大使とする遣唐使が渡唐し、翌年には留学生吉備真備らを連れて帰朝しているので、この遣唐使がまだ唐に滞在中に病死したものと考えられ、また、墓誌に日本という国名があることが興味深い。 2005年12月、NHKスペシャル「新シルクロード」で井真成のイメージドラマが放送された。
井の姓は中国風に一字に省略したもので、古代の帰化系氏族「井上(いのへ)氏」あるいは同様の帰化系氏族「葛井(ふじい)氏」の出身ではないかと推定する研究者もいる。葛井氏ゆかりの葛井寺の有る大阪府藤井寺市では、同時期の葛井氏に「○成」という名が多く見られることを論拠として、井真成を「葛井真成」と呼び「せめて墓誌の形ででも”里帰り”を」と求める運動が起き、その”里帰り”が2005年に実現され、アイセルシュラホールで一般公開された。
[編集] 出身に関する諸説
- 井上氏説
- 鈴木靖民(国学院大学教授)
- 古代豪族で帰化人の末裔である井上氏の一族ではないかと主張し、葛井氏なら一字にする際に中国にも多い「葛」姓にするのではないかと主張。
- 鈴木靖民(国学院大学教授)
- 葛井氏説
- 情真誠説
- 張雲方(中日関係史学会副会長)
- 中国の言葉でまじめでまっすぐな人柄を指すときに使う言葉の音に似た姓名を皇帝より下賜されたのではないかと主張し、日本名に関しては不明と主張。
- 張雲方(中日関係史学会副会長)
- 中国姓説
- 王維坤(西北大学教授)
- 「井」姓は唐の時代から長安周辺に多い姓であり、それを採用したと主張し、日本名に関しては不明と主張。
- 王維坤(西北大学教授)
- その他の主張
[編集] 参考文献
- 専修大学・西北大学共同プロジェクト 編『遣唐使の見た中国と日本 新発見「井真成墓誌」から何がわかるか』(朝日選書、2005年) ISBN 4022598808
- 藤田友治 編著『遣唐使・井真成の墓誌 いのまなり市民シンポジウムの記録』(ミネルヴァ書房、2006年) ISBN 4623046192
[編集] 関連項目
- 遣唐使
- 唐
- 葛井寺
- アイセルシュラホール
- 藤井寺市
- 井真成市民研究会
[編集] 外部リンク
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