董其昌
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董其昌(とう きしょう 嘉靖34年1月19日(1555年) - 崇禎9年11月(1636年)は、中国明代末期に活躍した文人であり、特に書・画に優れた業績を残した。清朝の康煕帝が董の書を敬慕したことは有名。その影響で清朝において正統の書とされた。また独自の画論は、文人画(南宗画)の根拠を示しその隆盛の契機をつくった。董が後世へ及ぼした影響は大きく、芸林百世の師と尊ばれた。
字を玄宰。号は思白・思翁・香光と称し、斎室の戯鴻堂・玄賞斎・画禅室も号として用いている。禅に帰依していたため香光居士ともいった。華亭県(上海松江)の出身。
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[編集] 略歴
幼い頃より莫如忠の書生となり、その子是龍に兄事した。13歳で科挙の童試に合格。万暦17年(1589年)、35歳にして会試に及第し進士となる。翰林院庶吉士となった。次いで編修、光宗が皇太子の頃の教育係などを歴任し高級官僚の道を歩む。しかし万暦27年(1599年)、政争に巻き込まれて左遷されると病気を理由に職を辞して帰郷。6年後に湖広提学副使になったが生員らの騒擾事件を引き起こしてしまい1年半で辞職。十数年後、光宗が即位するとその招聘を受けて天啓元年(1621年)太常寺少卿に任命され『神宗実録』の編纂に携わる。この功績を評価され要職を歴任し南京礼部尚書(南京の文部大臣)になった。しかし、権力を掌握した宦官の魏忠賢に粛正されることを危惧して辞職。崇禎4年(1631年)また召し出され南京礼部尚書を任命されたが翌年引退。太子太保を加えられる。帰郷してほどなく病没。享年83。文敏と諡号を贈られた。
[編集] 書
13歳で科挙の童試に合格したが、書が拙であるとされたためトップにはなれなかった。このことに発奮して16歳から本格的に書の研鑽をはじめ、30年以上にわたったという。はじめ碑文や法帖で顔真卿・鐘繇・王羲之に学んでいたが、25歳の時に有名な蒐集家・鑑識家である項元汴の許で歴代名家の真蹟を見てから書の神髄は真蹟によらねば得られないと悟り、徹底して真蹟の臨模に努めた。「我が書は臨倣せざる所はなし」とまで述べるほどだった。47歳にしてようやく自己の体を獲得したと吐露しているが、特にこれを董体と称する。顔真卿・張旭・懐素らが王羲之の神韻を受け継いでいるとする北宋の革新的な書法観に感化を受け、蘇軾・黄庭堅・米芾に傾倒している。つまり王羲之の精神を把握することを重視し、書は天真爛漫であるべきとした。一方、文徴明の一派には批判的で、その淵源となる元代の趙孟頫には激しく対立した。趙らは形ばかりを真似て俗体であると斥けている。董は早くから禅に参じており、その書の根底に禅味があるとされた。明代は自由闊達な精神を好む時代であったから董の書法はたちまち称揚された。清代になると康煕帝が偏愛と呼べるほどに私淑し、その推賞から当時の士大夫(文人)の間でもてはやされた。乾隆帝も董の書風を好んだため、長らく隆盛した。
[編集] 画と画論
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[編集] 人と思想
董は、明代のエキセントリックな思想家である李卓吾に出会い、禅を通してその思想を受け入れている。李は仮を排し童心を説いたことで知られるが、董が自らの芸術において天真爛漫を尊んだこともこの童心への帰着であろう。また董の普段の言動も恣意的で、身勝手だったことが明らかとなっている。故郷では高利貸などをして蓄財し書画の蒐集に貪欲だったが、これらの悪徳が原因で民衆の襲撃を二度も受けている。これらも欲望、功利を卑しむことは偽善とする李の思想の反映と取れる。
[編集] 日本への影響
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[編集] 著作
- 『画禅室随筆』(書画論)
- 『画旨』(書画論)
- 『容台集』(詩文集)
- 『神廟留中奏疏彙要』
[編集] 主な作品
[編集] 画
- 「高逸図」北京故宮博物院
- 「磐谷序書画合璧巻」大阪市立美術館
- 「青弁山図」1617年 クリーブランド美術館
- 「婉孌草堂図」1597年 台北 個人蔵
- 「丁巳九月山水図」1617年 ヴィクトリア国立美術館
- 「江山秋霽図」クリーブランド美術館
[編集] 書
- 「行草書巻」1603年 東京国立博物館
- 「菩薩蔵経後序」1618年 台北故宮博物院
- 「邠風図詩巻」1621年
- 「酒徳頌巻」
[編集] 関連項目
[編集] 出典
- 曾布川寛「董其昌の文人画」『中華文人の生活』、荒井健編、平凡社、1994年、ISBN 4582482066
- 大槻幹郎『文人画家の譜』ぺりかん社、2001年、ISBN 4831508985
- 藤原有仁共著『董其昌集』二玄社<中国法書ガイド51 明>、1981年、ISBN 4544021510