顔真卿
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顔真卿(がん しんけい、 709年(景龍3年) - 785年(貞元元年))とは、字は清臣、中国唐代の屈指の忠臣であり代表的な書家でもある。
琅邪臨沂(山東省)の顔氏の出身であり、先祖は孔子の弟子顔回。同族に後漢の武将顔良がいる。生まれは長安であり、『顔氏家訓』で知られる顔之推の五世の孫にも当たる。顔氏は、代々学問で知られ、また能書家が多く、世に学家と称された。
737年(開元25年)に進士及第し、742年(天宝元年)に文詞秀逸科に挙げられ、監察御史に昇進し、内外の諸官を歴任した。ただ、生来が剛直な性質であったが為に、権臣の楊国忠に疎んじられ、753年(天宝12載)に平原郡(山東省徳県)の太守に降格された。
時まさに安禄山の反乱軍の勢いが熾烈を極めた時期に当たり、河北や山東の各地がその勢力下に帰属する中にあって、顔真卿は、従兄で常山郡(河北省正定県)の太守であった顔杲卿とあい呼応して、唐朝に対する義兵を挙げた。その後、756年(至徳元載)に平原城を捨て、鳳翔県(陝西省)に避難中であった粛宗の許に馳せ参じて、憲部尚書(刑部尚書)に任じられ、御史大夫をも加えられた。
しかし、長安に帰った後、再度、宦官勢力や宰相の元載のような実権者より妬まれ、反臣の淮西節度使李希烈に対する慰諭の特使に任じられ、そこで捕えられた。李希烈は真卿を惜しみ、自らの部下となるよう何度となく説得したが、真卿は断固拒否し続け、殺された。この最期は非常に劇的であったため、後世忠臣の典型例として、靖献遺言に取り上げられている。
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[編集] 顔真卿の書について
顔氏は顔真卿以前より能書家の家系として知られており、真卿も壮年期に張旭に筆法を学んだという。真卿は初唐以来の流行である王羲之流(院体)の流麗な書法に反発し、「蔵鋒」の技法を確立した。力強さと穏やかさとを兼ね備えた独特の楷書が、その特徴である。伝説では、顔真卿が貧しかった頃、雨漏りを見てこの書法を編み出したといわれている。ただしその字形は当時標準とされた楷書とは異なり、叔父・顔元孫が編纂した「干禄字書」の規範意識に基づく独自の字形を持つものも多く、正統的な王羲之以来の楷書の伝統を破壊するものであったため、賞賛と批判が評価として入り混じっている。これらの楷書は「顔体」(北魏流)とも呼ばれ、後世に大きな影響を与えた。楷書作品には多宝塔碑・顔勤礼碑などがある。
また、行書に関しては楷書と異なり、書の達人として王羲之に匹敵するとされており、文句なしの賞賛を受けている。
遺墨が多く残り、「争座位帖」や「祭姪文稿」がとりわけ有名である。文集として『顔魯公文集』がある。
顔真卿の影響を受けた書家には、弘法大師空海・井上有一・榊莫山・実相寺昭雄らがいる。 空海が唐に入った頃、韓愈が王羲之を否定して顔真卿を称揚する主張を行っていたため、 空海が顔真卿の書風を好んだのではないかと榊莫山は推測している。 日本でも中国でも、過去の歴史に於いては書道に於いては王羲之流が主流派であったため、顔真卿が評価されるようになったのは、書道界でも実は最近のことである。
[編集] 関連項目
[編集] 伝記
[編集] 参考文献
- 外山軍治『顔真卿』(1964年)