王羲之
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王 羲之(おう ぎし 生没年不詳 303年 - 379年、307年 - 365年、321年 - 379年など諸説有り)は中国東晋の政治家、書道家。字は逸少。右軍将軍であったことから王右軍とも呼ばれる。琅邪王氏の王導や王敦らの一族に連なる名門の出身である。家族には、曾祖父の王覧(王祥の弟)、祖父の王正、父の王曠がおり、 子としては王玄之(長男)、王凝之(次男)、王徽之(三男)、王操之(四男)、王献之(七男)ら7男1女を儲けた。 孫には王楨之(徽之の子)、王静之(献之の同母兄の子)らがいる。
原籍は琅邪郡の臨沂(現在の山東省)、後に山陰(現在の浙江省紹興市付近の古地名)に遷居した。右軍将軍、会稽内史、揚州刺史などを歴任したが、351年に官を辞して隠遁生活を送る。
秦・漢代の字体などを研究しそれぞれの字体を行書、草書などと組み合わせ、奔放で力強く優雅な書体が特徴的である。書道の革命家と言われ、近代書道の体系を作り上げ、後世の書道家達に大きな影響を与えた。その書の中では『蘭亭序』と『楽毅論』『快雪時晴帖』『十七帖』が特に有名である。他に『黄庭経』『喪乱帖』『孔侍中帖』『初月帖』『集王聖教序』『興福寺断碑』などが見られる。
王羲之は書聖と言われており、末子の王献之と併せて二王とも評された。
唐の太宗(李世民)は王羲之の書を愛し、これを収集し、崩じたときに『蘭亭序』を含むすべてを一緒に陵墓に埋めてしまったと言われている。そのためか現存する王羲之の真筆は存在しないと言われており、現在、王羲之の書とされているものも、唐代に太宗の命令で複写したもの及び、太宗が作らせた拓本のみであると言われている。後世になると、唐代の複写本ですら貴重となり、質の悪い王羲之のコピーが手本として多数出回っていたという。現在では唐代の複写本も貴重であるため国宝として指定され、中国の上海博物館が巨額を投じて宋代の拓本を入手しているぐらいである。
真筆に限りなく近いとされる王羲之の書では、『快雪時晴帖』が残存しており、台北の故宮博物院で展示されている。現代の複数の書家の鑑定によれば、王羲之の存命中からそう遠くない晋代に作成されたものと思われる双鉤填墨ないし真筆で、余りにも伝来が古すぎるために真筆か双鉤填墨かの判断がつかないものであるという。古くは唯一の真筆と考えられており、清の乾隆帝はこの書を愛し、自ら筆を持ち「神」と記したと言われている。
王羲之といえば、書の方面で余りにも有名であるが、その一方で、熱心な道教信者でもあった。その書の中にも丹薬の服餌などの事柄が登場している。
[編集] 関連項目
- 顧愷之(書聖・王羲之に対し、顧愷之は画聖と称された。)
[編集] 参考文献
- 『王羲之・六朝貴族の世界』吉川忠夫著(清水新書 1984年) ISBN 4389440179
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