藤原保則
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藤原 保則(ふじわら の やすのり、天長2年(825年) - 寛平7年4月21日(895年5月23日))は平安時代初期の貴族。藤原南家の出自で藤原貞雄の子。地方官として善政で治績をあげ良吏として知られ良二千石とうたわれた。延長8年(930年)の清涼殿落雷事件で落命した権大納言藤原清貫は嫡男。
斉衡2年(855年)治部少丞に任官。その後、民部少丞、兵部少丞、式部少丞を歴任。貞観2年(860年)大丞正六位上にあった保則は判官となる。
貞観8年(866年)保則は従五位下に進み備中権守に任じられる。飢饉と悪政によって疲弊が甚だしかった備中国に赴任した保則は貧者を救い、勧農を大いにする善政を施して立て直した。その後、備中守、備前権守を歴任して、その治績を大いにうたわれた。保則が備前国にあったとき、他国から入った盗賊が保則の善政を聞いて恥じ入り自首した話が伝わっている。保則が任を終えて京へ還るとき、人々が道を遮り泣いて別れを惜しんだという。
貞観18年(876年)保則は京に還り、右衛門権佐・検非違使となり都の治安に手腕を発揮し、民部大輔となり従五位上に進む。元慶元年(877年)頃には右中弁に任じられている。
元慶2年(878年)従五位上に進み、出羽権守となる。当時、出羽国では夷俘が反乱を起こして官軍が大敗する事件が起きていた。保則は地方官としての手腕を期待されて出羽国の受領に任じられたのである。出羽国へ着任した保則は兵を配して軍事的措置を講じる一方で、それまでの苛政を改めて政府の備蓄米を民に供して夷俘の懐柔を図った。保則の善政を聞いて反乱を起こしていた夷俘が次々に投降を願い出、保則はこれを許した。追討を命じる朝廷に対して保則は寛政により夷俘を鎮撫することこそ上策であると意見し、朝廷はこれを容れ反乱は武力を用いることなく終息した(元慶の乱)。
元慶6年(882年)讃岐権守だった保則は従四位下に進む。仁和3年(887年)伊予守に任じられたが辞退し、大宰大弐に任じられ、従四位上に進む。宇多天皇は保則の力量を高く評価し、寛平3年(891年)左大弁、次いで参議、近江権守、民部卿に任じられる。寛平7年(895年)死去。
三善清行はその功績を称えて『藤原保則伝』を著した。