宇多天皇
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宇多天皇(うだてんのう、貞観9年(867年)5月5日 - 承平元年(931年)7月19日)は、日本の第59代天皇(在位:887年8月26日 - 897年7月3日)。 名は定省(さだみ)。
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[編集] 系譜
光孝天皇の第七皇子。母は桓武天皇の皇子・仲野親王の娘・斑子女王。 一度、臣籍降下し、源氏の姓を賜った後に、実力者の関白藤原基経の後押しで887年(仁和3年)皇太子に立てられ、皇族に復帰する。これには宇多天皇が基経の異母姉である内侍藤原淑子の猶子であったことが大きい。8月26日立太子、同年光孝天皇が病没すると、11月7日に即位した。
第一皇子敦仁親王(のちの醍醐天皇)は、女御 贈皇太后藤原胤子の子。藤原胤子は内大臣藤原高藤女で、宇多天皇が若い時からの妻の一人。
藤原胤子の他、女御は藤原温子、橘義子、菅原衍子、橘房子。 藤原温子は基経の女で、宇多帝即位後に入内した。 女御藤原胤子が病没後、皇太子敦仁親王を猶子とし、醍醐天皇の即位に伴い、皇太夫人となる。晩年は東七条宮に住んだため、東七条后、七条后とも称される。橘義子からは斉世親王があり、菅原道真女を妻としたことから、後年菅原道真の誣告に際してその名が出た。菅原衍子は菅原道真の女。
皇子皇女多数。宇多天皇の孫は、ほとんどが源氏の姓を賜り、臣籍に降下した。 宇多天皇から出た源氏を宇多源氏といい、藤原胤子の子・敦実親王から出た系列が最も栄えた。 敦実親王の子・左大臣源雅信は左大臣を務め、その女・倫子は藤原道長の妻となり、一条天皇中宮藤原彰子や関白藤原頼通の母となった。朝廷貴族としての地位を維持した子孫としては、公家の綾小路家などがあり、また雅信から近江に土着した佐々木氏が出ている。
[編集] 系図
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(54)仁明天皇 |
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(55)文徳天皇 |
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(56)清和天皇 |
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(57)陽成天皇 |
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元良親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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惟喬親王 |
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貞純親王 |
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(源)経基〔清和源氏へ〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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(58)光孝天皇 |
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(59)宇多天皇 |
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(60)醍醐天皇 |
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人康親王 |
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操子女王 (藤原基経妻) |
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真寂法親王 (斉世親王) |
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敦実親王 |
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(源)雅信〔宇多源氏へ〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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[編集] 略歴
藤原時平と菅原道真を重用した(寛平の治)。888年(仁和4年)に造立された勅願寺が仁和寺。その後、醍醐天皇に譲位し、仁和寺に入って法皇と称した。天皇の譲位については古くは仏道専心説が有力であったが、近年では藤原氏からの政治的自由を確保するためとする説、一旦臣下から皇族に復帰して即位したためにこれに不満を抱く他の皇族の皇位要求の動きに先んじた説(『大鏡』には、陽成上皇が宇多天皇のことを、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と言ったという逸話が残っているが、これは他の皇族達の不満を暗示したものであるという説がある)などがある。なお、皇位継承者不在の危機にあたり、臣籍降下した者が即位した例と論じられることもあるが、当時在世中の元良親王らを超越しての即位であり、藤原淑子・基経による擁立劇と見るべきであろう。即位直後におきた「阿衡事件」は、天皇を自らの傀儡にしたい基経と、若き天皇との主導権争いと見ることができよう。事件はいったん天皇の譲歩に終わったものの、基経が想像するよりは英明な人物であったから、菅原道真を重用するなど、次第に「親政」色を強めてゆくことに成功した。 『寛平御遺誡』、『宇多天皇御記』の著書を残す。また、晩年は病気がちの醍醐天皇に代わって、実際の政務を執っていたいう説もある。また、「延喜天暦の治」と賞せられる醍醐天皇・村上天皇の「善政」とされるものの多くは宇多天皇(法皇)の政策の延長上に過ぎず「寛平の治」と呼ぶのが妥当ではないかという説もある。 譲位後に行ったおおがかりな和歌の行事である「亭子院歌合」は、国風文化の盛行の流れを後押しするものである。
[編集] 后妃
- 872~907 女御(皇太夫人):藤原温子 - 藤原基経女
- ?~896 女御(贈皇太后):藤原胤子 - 藤原高藤女
- ?~? 女御:橘義子 - 橘広相女
- ?~? 女御:菅原衍子 - 菅原道真女
- ?~893 女御:橘房子
- ?~? 更衣:源貞子 - 源昇女
- ?~? 更衣:徳姫女王 - 十世王女
- ?~? 更衣:藤原保子 - 藤原有実女
- ?~? 尚侍:藤原褒子 - 藤原時平女
[編集] 息子女
- 885~930 敦仁親王(醍醐天皇)
- 886~927 斎世親王(三品兵部卿)
- 887~930 敦慶親王(二品式部卿)
- ?~926 敦固親王(二品兵部卿)
- 890~910 均子内親王(敦慶親王妻)
- 892?~958 柔子内親王(六条斎宮)
- 893~967 敦実親王(一品中務卿)
- 895~936 依子内親王
- ?~902 君子内親王(斎院)
- ?~952 誨子内親王(元良親王妻)
- ?~958 孚子内親王
- ?~979 季子内親王
[編集] 諡号・追号・異名
通説では譲位後の在所の名称より宇多天皇と追号された(追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には両者は異なる)と言われているが、実際の居宅は仁和寺御室・亭子院・六条院を主としていたという(宇多院は元は父の光孝天皇の親王時代の邸宅で、宇多天皇はここで成長したからだという異説もある)。 また、寛平法皇、亭子院(ていじのいん)、朱雀院太上天皇などの名称でも呼ばれた。
[編集] 在位中の元号
[編集] 陵墓・霊廟
陵墓は京都市右京区鳴滝宇多野谷にある大内山陵(おおうちやまのみささぎ)とされる。 全ての天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。
[編集] 関連項目
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歴代天皇一覧 | |||||||||
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1 神武 | 2 綏靖 | 3 安寧 | 4 懿徳 | 5 孝昭 | 6 孝安 | 7 孝霊 | 8 孝元 | 9 開化 | 10 崇神 |
11 垂仁 | 12 景行 | 13 成務 | 14 仲哀 | 15 応神 | 16 仁徳 | 17 履中 | 18 反正 | 19 允恭 | 20 安康 |
21 雄略 | 22 清寧 | 23 顕宗 | 24 仁賢 | 25 武烈 | 26 継体 | 27 安閑 | 28 宣化 | 29 欽明 | 30 敏達 |
31 用明 | 32 崇峻 | 33 推古 | 34 舒明 | 35 皇極 | 36 孝徳 | 37 斉明 | 38 天智 | 39 弘文 | 40 天武 |
41 持統 | 42 文武 | 43 元明 | 44 元正 | 45 聖武 | 46 孝謙 | 47 淳仁 | 48 称徳 | 49 光仁 | 50 桓武 |
51 平城 | 52 嵯峨 | 53 淳和 | 54 仁明 | 55 文徳 | 56 清和 | 57 陽成 | 58 光孝 | 59 宇多 | 60 醍醐 |
61 朱雀 | 62 村上 | 63 冷泉 | 64 円融 | 65 花山 | 66 一条 | 67 三条 | 68 後一条 | 69 後朱雀 | 70 後冷泉 |
71 後三条 | 72 白河 | 73 堀河 | 74 鳥羽 | 75 崇徳 | 76 近衛 | 77 後白河 | 78 二条 | 79 六条 | 80 高倉 |
81 安徳 | 82 後鳥羽 | 83 土御門 | 84 順徳 | 85 仲恭 | 86 後堀河 | 87 四条 | 88 後嵯峨 | 89 後深草 | 90 亀山 |
91 後宇多 | 92 伏見 | 93 後伏見 | 94 後二条 | 95 花園 | 96 後醍醐 | 97 後村上 | 98 長慶 | 99 後亀山 | 100 後小松 |
北朝 | 1 光厳 | 2 光明 | 3 崇光 | 4 後光厳 | 5 後円融 | 6 後小松 | |||
101 称光 | 102 後花園 | 103 後土御門 | 104 後柏原 | 105 後奈良 | 106 正親町 | 107 後陽成 | 108 後水尾 | 109 明正 | 110 後光明 |
111 後西 | 112 霊元 | 113 東山 | 114 中御門 | 115 桜町 | 116 桃園 | 117 後桜町 | 118 後桃園 | 119 光格 | 120 仁孝 |
121 孝明 | 122 明治 | 123 大正 | 124 昭和 | 125 今上 | ※赤字は女性天皇 |