諏訪忠粛
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諏訪 忠粛(すわ ただかた、明和5年4月4日(1768年5月19日) - 文政5年6月28日(1822年8月14日))は、信濃高島藩の第7代藩主。父は第6代藩主・諏訪忠厚(忠粛は長男)。母は木村氏。正室は松平乗完の娘。側室に間野氏。官位は従五位下、伊勢守。因幡守。
1768年4月4日生まれ。幼名は軍次郎。父が暗愚だったために起こった家督騒動である二の丸騒動では、反忠粛の家臣らによって暗殺されかけたこともある。しかし父がこの騒動で幕府より強制隠居を命じられたため、1781年12月11日に後を継ぐこととなった。
1785年からは坂本養川を登用して、検地や新田開発、税制改革、鋸製造業の奨励などを中心とした藩政改革を行ない、ある程度の成果を収めた。1803年には藩校・長喜館を創設して、藩士子弟の養育や藩医を長崎に留学させて蘭学を学ばせるなど、学問も積極的に奨励した。1816年11月21日、長男の諏訪忠恕に家督を譲って隠居し、1822年6月28日に死去した。享年55。法号:放光院殿普照道徳大居士。墓所:諏訪市湯の脇の温泉寺。
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