蘭学
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蘭学(らんがく)は、江戸時代にオランダを通じて日本に入ってきたヨーロッパの学術・文化・技術の総称。洋学とも。
オランダ通詞によって学ばれ始め、新井白石が『西洋紀聞』で開明的な海外理解を示し、徳川吉宗が漢訳蘭書の輸入禁止を緩和し、青木昆陽、野呂元丈に蘭語学習を命じ、実学を奨励したのちに盛んになった。
江戸時代も後半にさしかかると島津重豪をはじめ、財力ある西国大名の中にも蘭癖大名と呼ばれるほど蘭学に傾倒した者が現れ、その支援によって蘭学がいっそう振興した。
田沼時代の1774年には、杉田玄白・前野良沢らがオランダの医学書の『ターヘル・アナトミア』を訳して『解体新書』として刊行、 志筑忠雄はニュートン力学を研究し、『暦象新書』として訳した。平賀源内は蘭学全般を学び、エレキテルの修理や寒暖計などを発明した。幕府天文方では世界地図の翻訳事業がなされ、1810年『新訂万国全図』を刊行した。
伊勢国の商人である大黒屋光太夫は1782年に漂流してアリューシャン列島からロシアへ渡り、10数年を経て帰国を果たした。彼の豊富な海外知識は桂川甫周が『北槎聞略』としてまとめ、蘭学発展のための刺激にもなった。
蘭学興隆に伴い、幕府は高橋景保の建議を容れ、1811年に天文方に蛮書和解御用を設けて洋書翻訳をさせたが、これは未完に終わった。文政年間にはシーボルトが日本を訪れ、長崎の郊外に鳴滝塾を開いて高野長英や小関三英などの門下生を教えたが、 一方、外国からの開国要求を警戒した江戸幕府により、政治・思想面では抑圧が加わり、シーボルト事件、 蛮社の獄などの弾圧事件も起こった。
幕末には高島秋帆の西洋砲術、江川英龍(太郎左衛門)の韮山反射炉、勝海舟の長崎海軍伝習所など、幕府洋学は軍事的実学性の強いものであった。蛮書和解御用は、外交文書の翻訳にも当たるようになり、洋学所、1858年設置の蕃書調所と改編される。洋学研究・教育機関としての蕃書調所は、1862年(文久2)には対象言語をオランダ語から、英語などに拡大した。1863年に開成所と改称、幕府瓦解により明治新政府に受け継がれ、のちの東京大学につながる。
また諸藩でも、薩摩藩の集成館や、佐賀藩の蘭学寮設置や反射炉の建設など、独自の洋学が行われた。