谷本清
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谷本 清(たにもと きよし、1909年 - 1986年)は、香川県坂出市出身の日本のキリスト教牧師、平和活動家。
関西学院大学神学部を卒業後、渡米して1940年にエモリー大学大学院修了。沖縄中央教会牧師を経て、1943年に広島流川教会の牧師に就任。1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下の際に、爆心地から3kmの己斐町で疎開作業をしており直接の難を免れるが、広島市内に引き返して救護活動に従事。その後、原爆症により生死の境をさまようが奇跡的に回復。
教会復興に尽力している最中、1946年5月、ジョン・ハーシー(ピュリッツァー賞作家)の取材を受けたことから、谷本の被爆体験が世界中に紹介され、著書『ヒロシマ』となって大きな反響を呼ぶ[1]。 1948年10月にアメリカメソジスト教会のミッション・ボードの招請により渡米。15カ月間に渡り31州256都市で講演を行ない、広島の惨状と平和を訴えるとともに、流川教会復興に奔走。のちにアメリカ上院で開会祈祷を行うなど、アメリカでは一躍時の人となる。しかし国内では、占領軍によるメディア規制(プレス・コード)のために、原爆被害の実情も、谷本の活動もよく知られていなかった。また国内のキリスト教関係者の中には彼の事を原爆牧師とあだなして非難する人もあったという。 1950年8月、ヒロシマ・ピース・センターを設立し、ノーマン・カズンズとともに被爆した少女や孤児の救済活動として、原爆孤児の精神養子運動や原爆乙女の渡米治療に取り組む。
1982年に流川教会牧師を退任。名誉牧師の称号を授与される。晩年は、広島市の外郭団体の広島平和文化センターの理事長などを歴任。1986年に死去。生前の功績を讃え、故人としては異例だが、エモリー大学から名誉神学博士の称号を授与される。その式典には第39代アメリカ合衆国大統領ジミー・カーターも参列した。死去の翌年の1987年にはヒロシマ・ピース・センターによって谷本清平和賞が創設された。
谷本の運動は、海外への原爆体験の普及、原爆被害者の救援という点で先駆的なものであり、注目に値する。日本国内より海外、特にアメリカで高く評価されている人物である。
[編集] 注釈
- ^ 。 ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』はアメリカでは学校の社会科の副読本として長きに渡り広く読み続けられている。また20世紀アメリカジャーナリズムのTOP100の第1位に選出されている。日本語版は谷本清訳。
[編集] 関連事項
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