豊原市 (台湾)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
台湾台中県豊原市 | |
地理 | |
位置 | 東経120°43' 北緯24°14' |
面積 | 41.1845km² |
人口 | |
戸口(2006年4月) | 46,032戸 |
人口(2006年4月) | 164,023人 |
政治 | |
行政区分 | 県轄市 |
市長 | 張瀞芬 |
地方自治期間 | 豊原市民代表會 |
下部行政区画 | 36里800鄰 |
その他 | |
郵便番号 | 420 |
市外局番 | 04 |
市花 | - |
市鳥 | - |
市木 | - |
別称 | 葫蘆墩 |
|
|
|
豊原市(ほうげんし、Fēngyuán、フォンユェン、慣用読み:とよはら)は、台湾台中県の県政府所在地である。
目次 |
[編集] 地理
[編集] 歴史
豊原市の旧名は「葫蘆墩」(ころとん)であり、その地名の由来は史料によれば、清代初の康熙年間、草木が繁茂する荒野を先住民が「松柏の林」という意味で「泰耶爾墩」と称し、「葫蘆墩」は「泰耶爾墩」の音訳であると言われている。また別説では「墩腳」と下南,坑有の3地区に小丘があり、形状が葫蘆に似ていた事から命名されたという説もある。1684年、台湾に1府3県が設置された際、豊原は諸羅県に帰属することとなった。
1733年、張達京と岸裡社平埔族土官潘墩仔が清朝のこの地の開墾許可を獲得し、広東漳州、泉州よりの入植を推進し、この地に集落を形成するに至った。1886年になると葫蘆墩に撿衙門が設置され、豊原地区に初めて官が設置された。続いて東上堡保甲局(聯保局)も葫蘆墩街に移され、それまで地区の中心であった岸裡大社に替わって中心地となるにに至った。その後巡府劉銘伝が台湾を訪問した際に、豊原の土地が肥沃であり、物産が豊富であることから「富春郷」と命名され、また水質が良好な上、美人が多いことから「小蘇州」とも称された。
豊原の開発は岸裡社を起点に行われた。当初は原住民である平埔族「拍宰海」(PAZEH或いはPAZZEHE)族群の拠点であり、域内に葫蘆墩(FULUTON)、崎仔脚(岐仔下とも)、烏牛欄(AURAN)、翁仔(BARLAEON)、樸仔籬(POALY或いはABOUAN POALY)などの小社が形成され、麻薯屯を中心として「岸裡社」(RAHO DO PURU)に帰属していた。
日本による統治が開始されると、台中県を設置し現在の豊原、潭子、大雅、神岡、社口をあわせて「豊原郡」を設け、豊原の地名が誕生した。また「葫蘆墩駅」が設置されるなど、豊原は台湾中部の交通の要衝としての地位を占めるようになったばかりか、1912年、台湾製麻株式会社が設立され南嵩里及び田心里一帯にタバコと黄麻が栽培されたり、1915年からは八仙山林で材木の伐採が開始されると、豊原は木材の集積地であるばかりか重要な加工拠点となり、工業面でも大いに発展を見ることとなり、現在の経済構造の基礎を築いた。
1920年、和風地名豊原と改称。
戦後の1950年10月21日、台中県が設置され豊原は県政府所在地として発展し、1976年に県轄市に昇格して現在に至っている。
[編集] 経済
豊原市で過去主要産業よされていた稲作、木材、木材加工、漆工芸品、製麻紡織、タバコ、製鞋などは経済構造の変化により衰退し、現在では機械産業と果物栽培が主となっている。
[編集] 行政区
三村里 下街里 大湳里 中山里 豊西里
中陽里 中興里 北陽里 北湳里 民生里
鎌村里 田心里 圳寮里 朴子里 西安里
豊圳里 西勢里 西湳里 東陽里 東勢里
東湳里 豊栄里 社皮里 南田里 南村里
南陽里 南嵩里 翁子里 翁明里 翁社里
頂街里 豊原里 富春里 陽明里 葫蘆里
豊田里
[編集] 歴代市長
代 | 氏名 | 任期 |
---|
[編集] 教育
区分 | 数 | 名称 |
---|---|---|
大学 | 0 | - |
高中 | 2 | 国立豊原高級中学 |
高職 | 1 | 国立豊原高級商業職業学校 |
国中 | 4 | 台中県立豊原国民中学 台中県立豊東国民中学 台中県立豊南国民中学 台中県立豊陽国民小学 |
国小 | 8 | 台中県立豊原国民小学 台中県立瑞穂国民小学 台中県立翁子国民小学 台中県立南陽国民小学 台中県立富春国民小学 台中県立合作国民小学 台中県立豊田国民小学 台中県立豊村国民小学 台中県立葫蘆墩国民小学 |
[編集] 交通
種別 | 路線名称 | その他 |
---|---|---|
鉄道 | 台中線 | 豊原駅 |
高速道路 | 中山高速道路 | 豊原IC 台中JCT |
高速道路 | 中二高速道路 | 中港JCT |
高速道路 | 中二高速道路中環線 | 後里IC 豊原端IC 台中JCT 中港JCT |
省道 | 台13甲線 |