賊軍
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賊軍(ぞくぐん)とは、「官軍」の対語で、日本史上その軍の正当性を否定する言葉。天皇(朝廷)の意思にそぐわないとされた側の軍。朝敵と同じ意味だが、多く幕末・明治維新以後に用いる。
明治政府成立後は、反政府軍の事を意味するようになった。
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[編集] 幕末の「賊軍」
幕末においては当初禁門の変などで強攻策を主張した長州藩及びその支持者が賊軍とされた。孝明天皇が江戸幕府の策を支持したからである。ところが孝明天皇の死後、宮中の権力変化がおこり、それまで官軍として君臨した江戸幕府軍は薩摩藩長州藩の謀略によってその地位を奪われた。さらに薩長軍が官軍となってしまった為、薩長軍と戦った幕府軍は「賊軍」ということになってしまった。
歴史書では長年にわたって薩長に逆らった江戸幕府軍は賊軍扱いされ、幕府軍の主力を占めた新選組や会津藩、奥羽越列藩同盟は賊軍として悪の権化のように扱われた。
[編集] 明治の「賊軍」
実質的に明治時代「賊軍」となったのは西南戦争での旧薩摩藩士族とその同調者のみである。日清戦争における清、日露戦争におけるロシア帝国などは敵ではあるが「賊軍」とは言われない。また明治初期に多く起こった一揆も「賊軍」とは言われない。
敗北者に対する差別は厳しく、鹿児島県出身者というだけで公務員試験も受けられず門前払いされるケースは後を絶たなかった。唯一の例外が警察庁で、その理由は薩摩藩出身の川路利良が日本警察制度の創設者であったからである。現在も警察関係者で鹿児島県出身者の占める割合は高いといわれる。[1]
ただ、戦後になるまで汚名をかぶっていた旧幕府軍に対し、西南戦争関係者の名誉回復は比較的早く、明治22年に西郷隆盛が大赦で許されたのを皮切りに、大正時代が終わるまでに関係者の多くは名誉回復している。
[編集] 諺
- 勝てば官軍 負ければ賊軍
過程がどうあれ、結果が全てという意味。
[編集] 関連項目
[編集] 参考
- ^ 参考記事→京都新聞1998年「気になるレポート」