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遊牧ウイグル帝国 - Wikipedia

遊牧ウイグル帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

820年時点の版図
820年時点の版図

遊牧ウイグル帝国(The Uyghur Empire 744年840年)はモンゴル高原からタリム盆地などに勢力を誇った遊牧民を中心とする国家。漢字表記は回紇、廻紇、回鶻、廻鶻などがある。


目次

[編集] ウイグル帝国前史

[編集] 創成期

新唐書によれば、その先祖は匈奴であるとされるが、史料が不足しており、確定できていない。新唐書によると、北魏の時代に高車部と称したトルコ系の民族であるとされ、新唐書ではトルコにあたるテュルクを敕勒、鉄勒などと表記している。新唐書に見えるトルコ系のなかでウイグルに近い部族名は、下記の15種。

  • 袁紇(Uyγur:ウイグル)
  • 薛延陀
  • 契苾羽
  • 都播(Tuba:トゥバ)
  • 骨利幹(Qurïqan:クリカン)
  • 多覧葛(Täläŋüt 『-t』は複数形)
  • 僕骨(Boqut 『-t』は複数形:ボッコ、「僕固」とも表記)
  • 抜野古(Bayïrqu)
  • 同羅(Toŋra)
  • 渾(Qun)
  • 思結(Sïqït 『-t』は複数形)
  • 斛薛
  • 奚結
  • 阿跌(Ädis:エディス)
  • 白霫
袁紇は烏護、烏紇ともいう。の時代には韋紇(典拠:隋書鉄勒伝)とよばれた。
  • 初期のUyghurは『旧唐書廻紇伝』、『新唐書回鶻伝』などによれば、勇猛だが指導者がおらず、水草を追って転々と放牧生活をおくり、騎射が得意であったことがわかっている。
  • 初期(7世紀初頭)のころ、鉄勒は突厥に従属していたが、西突厥の泥撅処羅可汗によって攻められ、財物を奪われた。泥撅処羅可汗は鉄勒がそのことを怨むのではないかと疑い恐れ、鉄勒部の主なものたちを集めて、穴埋めにして殺した。そのことから韋紇(ウイグル)の首長は僕骨、同羅、抜野古を併せて、西突厥に対して叛旗を翻し、自らをirkin(イルキン:俟斤)と称した。その俟斤の姓はYaγlaqar(ヤグラカル:薬羅葛)氏といった。また、ウイグルは薛延陀部族の居住地の北のセレンガ河(娑陵水)の畔に移住した。人口は10万人を数え、その兵数は5万を超えた。(典拠:『新唐書回鶻伝』)
注:新唐書では西突厥に叛旗を翻したときに部族名を回紇と称したとするが、回紇は唐がそう表記しただけであって、Uyghurが自ら国家の号として使用したわけではない。
その後、上記の俟斤と同一人物かは定かにはなっていないが、時健(原音はJegänか:甥などの意味)俟斤というものがいて、そのものをしてUyghurの大衆は初代の首長として仰いだ。その時健俟斤には菩薩(原音はPusarか)という子がいた。菩薩は勇猛にして智略に優れ、狩猟と騎射を愛好し、戦いがあると必ず自らが先頭に立って向かうところの敵をことごとく打ち砕いて破った。それゆえに、多くの部下は彼に畏怖して菩薩に従ったので、父である時健俟斤は、息子の力を恐れて息子を追放した。
しかし、時健は病に倒れると、菩薩を後継に指名し、また、部衆も菩薩の力量を頼り二代目の首長として立てた。菩薩の母で、時健俟斤の妻であった烏羅渾は性格が厳格で公明正大にして賢明であったので、よく部内の事件を取りさばいた。それらのことからUyghurの勢力は盛んになり、薛延陀と連合して突厥の北辺を攻めた。東突厥の最後の可汗のIllig Qaγan(頡利可汗)は兄の子であるYuquq šad(欲谷設)に10万の騎兵を与えてUyghurを討伐させた。菩薩は自ら5千の騎兵を率いてYuquq šad(欲谷設)を馬鬣山の山麓で撃破し、逃げるYuquq šad(欲谷設)を追って、天山まで進軍し、大いにYuquq šad(欲谷設)の軍勢を捕虜としたので、その勇名は漠北に響き渡った。このことから、Uyghurと薛延陀は互いに親密さを増した。また、菩薩は活頡利発(Kül Iltäbärか)という称号を名乗り、本拠地をTola(トラ)河(独楽水)の畔に移動させた。(典拠:『新唐書回鶻伝』)
注:iltäbärの『il』は国を意味する。

[編集] 古代テュルク系の上位階層は凡そ下記のとおり(ウイグル帝国初期まで)

  • Qaγan(カガン:可汗:皇帝
  • Yabghu(ヤブク:葉護:皇太子、王、諸侯)
  • šad(シャド:設:宰相または将軍)
  • Tägin(テギン:特勒:皇子)
  • Iltäbär(イリタバル・イルテビル:俟利発:大きな部族の長または大部隊の部隊長か?)
  • Irkin(イルキン:俟斤:部族長)
  • Tarqan(タルカン:達干:部族長)
  • Tudun(トドン:吐屯発:部族長)

[編集] 勃興期

  • 629年(唐では貞観3年)に、ウイグル(Uyghur)は唐に使者を派遣した。ウイグル(Uyghur)は菩薩の死後、胡禄俟利発(Utluγ Irkin)吐迷度が三代目を継いだ。
  • 646年6月には諸部族と連合して関係の悪化した薛延陀を攻めて滅ぼし(典拠:『資治通鑑』)、その衆を併合した。そのため、念願であった賀蘭山を越えて黄河の畔にまで勢力を拡大することができた。禄俟利発(Utluγ Irkin)吐迷度はこのとき、唐に使者を派遣した。唐の使者に応えて、太宗は霊州に行幸し涇陽で鉄勒の衆と面会し酒宴を開いた。(典拠:『新唐書回鶻伝』)
注:『新唐書回鶻伝』ではこの際に、ウイグル(Uyghur)は唐に帰順したとするが、交誼を結び、唐の官職を送った程度の関係であったと思われる。
  • 647年にウイグルの禄俟利発(Utluγ Irkin)吐迷度は再び使者を唐朝に派した。唐はそれに快くし、北方の諸部族を都督府、州、府として編成した。その内容は以下のとおり。(典拠:『新唐書回鶻伝』)
    • 回紇部:瀚海都督府
    • 多覧葛部:燕然都督府
    • 僕骨部:金微都督府
    • 抜野古部:幽陵都督府
    • 同羅部:亀林都督府
    • 思結部:廬山都督府
    • 渾:皐蘭州
    • 斛薛:高闕州
    • 阿跌:雞田州
    • 契苾羽:楡渓州
    • 奚結:雞鹿州
    • 思結:蹛林州
    • 白ショウ(「雨」冠に習):寘顔州
    • 結骨部:堅昆府
    • 骨利幹:玄闕州
    • 倶羅勃:燭竜州
注:結骨はQïrqïz:キルギス、倶羅勃はKüräbür:ウイグルの分流
  • そして、上記のそれらを単于臺に燕然都護府を設置して六都督、七州などを統治させ、初代の燕然都護に李素立をあてた。(典拠:『新唐書回鶻伝』)
注:ウイグルなどが唐の属国となったと新唐書は記すが、属国となった理由を蛮族が雷鳴を怖れて、唐の属国にしてほしいと嘆願したとするが、事実かどうかは不明。
  • 胡禄俟利発(Utluγ Irkin)吐迷度は、唐から懐化大将軍瀚海都督の官職を与えられたが、唐の威令が衰えると、突厥などの場合と同じく、唐より与えられた官職を名乗らず、Qaγan(可汗:皇帝)を称し、自国の体制を整え、外宰相6名、内宰相3名、その他に都督、将軍、司馬などの唐と同じような称号を使用した。(典拠:『新唐書回鶻伝』)


  • 吐迷度は、兄の子であるUyγur(烏紇)とKüräbür(倶羅勃)のKülüg Baγa Tarqan(倶陸莫賀達干)が謀って、互いに岳父である突厥の車鼻可汗に従属し、その兵を借りて夜中に吐迷度を襲撃して殺害した。燕然都護の副都護であった元礼臣はUyγur(烏紇)に使者を派して、「Uyγur(烏紇)が都督になりたいと奏上することを許す」と欺いた。Uyγur(烏紇)はたやすくその計略にはまり、礼を言いにきたUyγur(烏紇)を斬って見せしめにした。唐は諸部族がこの制裁の峻厳さを怖れて離反するのではないかと慮り、兵部尚書の崔敦礼に節を持ってそれらの地方に赴かせ、宥めさせた。唐は吐迷度に左衛大将軍を追贈し、弔祭は丁寧で手厚かった。(典拠:『新唐書回鶻伝』)
  • 吐迷度の子、前左屯衛大将軍、翊左郎将の婆閏が吐迷度の跡を継いで四代目のウイグルの首長となった。唐はその婆閏に左驍衛大将軍、回紇部落諸軍事、瀚海都督、Uluγ Iltäbär(大俟利発)に任じ、Küräbür(倶羅勃)のKülüg Baγa Tarqan(倶陸莫賀達干)が入朝したがそれを捕らえた。(典拠:『新唐書回鶻伝』)
注:Küräbür(倶羅勃)のKülüg Baγa Tarqan(倶陸莫賀達干)を捕らえたことに関しては、唐がKüräbür(倶羅勃)のKülüg Baγa Tarqan(倶陸莫賀達干)を唆してUyγur(烏紇)に吐迷度を殺害させたのであって、捕らえたのではなく保護したとする説もある。

[編集] 突厥(阿史那賀魯政権)討伐

  • 651年、阿史那賀魯は、子息の咥運とともに軍を率いて西方に進出し、イリ河河畔に本営を定め、沙鉢羅可汗と号した。その支配下には、咄陸五部落、弩失畢五部落があった。咄陸五部落には各々の指導者「啜」がおり、弩失畢五部落には各々の指導者「irkin(イルキン:俟斤)」がおり、それらは下記のとおり(典拠:『旧唐書西突厥伝』)。

[編集] <右廂>咄陸五部落

  • 1:処木昆律啜
  • 2:胡禄居闕啜(正しくは胡禄屋闕啜)…賀魯の女婿
  • 3:摂舎提暾啜
  • 4:突騎施賀邏施啜
  • 5:鼠尼施処半啜

[編集] <左廂>弩失畢五部落

  • 1:阿悉結闕俟斤…最大の勢力
  • 2:哥舒闕俟斤
  • 3:抜塞幹暾沙鉢俟斤
  • 4:阿悉結泥孰俟斤
  • 5:哥舒処半俟斤
それらの部落はそれぞれ数十万の精兵を抱えていたという。
注:10の部落とされているが、部族的には8部族で、部族名では、「処木昆」、「胡禄居」、「摂舎提」、「突騎施(Türgiš:テュルギッシュ)」、「鼠尼施」、「阿悉結」、「哥舒(Qošu:カジョ)」、「抜塞幹」である。そのため、処木昆律啜は「処木昆」部族の「律啜」という意味である。
  • 652年、阿史那賀魯は、子息の咥運をBaγatur Yabghu(莫賀咄葉護)に任じ、兵をさらに西へ進め、庭州に進軍した。それに対して、唐は永徽3年(652年)、左武衛大将軍の梁建方、右驍衛大将軍の契苾何力を派遣し、燕然都護の支配下のUyghurの騎兵5万を率いさせ、阿史那賀魯を討たせ、首級5千、首領60人余を捕虜にする大勝利をおさめた。(典拠:旧唐書西突厥伝)
  • 652年、阿史那賀魯は、子息の咥運をBaγatur Yabghu(莫賀咄葉護)に任じ、兵をさらに西へ進め、庭州に進軍し、その数県を荒廃させ、数千人を殺し、また捕らえて去った。そこで唐は、左武衛大将軍の梁建方、右驍衛大将軍の契苾何力を弓月道行軍総管とし、右驍衛将軍の高徳逸、右武衛将軍の薩孤呉仁をその副官として、府兵3万人を遣わし、ウイグル(Uyghur)の吐迷度旗下の騎兵5万人と合わせて協力して、阿史那賀魯を攻撃させた。(典拠『新唐書西突厥伝』)
  • 657年(顕慶2年)、唐は右屯衛将軍の蘇定方、燕然都護の任雅相、副都護の蕭嗣業、左驍衛大将軍、瀚海都督のウイグル(Uyghur)の婆閏などを一軍として派遣し、また別方向から、右武衛大将軍の阿史那彌射、左屯衛大将軍の阿史那歩真を流沙道安撫大使として派遣した。蘇定方の軍は進んで曳咥河(現在のカラ・イルティシュ河)の西に達した。阿史那賀魯は、胡禄居闕啜らの騎兵2万余を率いて陣を連ねて待ち構えた。蘇定方やウイグル(Uyghur)の婆閏らはそれと交戦し、阿史那賀魯らの軍を撃破した。唐、ウイグル(Uyghur)の連合軍は、阿史那賀魯軍の大首領都搭達干など二百余を斬った。阿史那賀魯と胡禄居闕啜は、軽装の馬で逃走し、イリ河を渡ったが、その際に多くの兵馬を失った。蕭嗣業は阿史那賀魯の本営を突いた。また、阿史那彌射が軍を進め、イリ河に至ると、処月、処密などの部族の首長がそれぞれの衆を率いてきた。阿史那彌射はさらに進んでボロ河に進んだ。阿史那賀魯は、この進軍に対して、歩失達干に命じて、散り散りになった兵士を集めさせて、柵によって防ぎ戦った。阿史那彌射と阿史那歩真とはこれを攻撃し、それを破った。阿史那賀魯は砕葉水(現在のチュー河)で再び防ごうとしたが、唐は全軍を集結させてこれを攻撃し破った。阿史那賀魯と咥運は、鼠耨設のもとに身を寄せようと重い、石国(Šaš:現在のタシケント)の蘇咄城(Shotūrkathか?)の近辺まで来たが、人馬ともに飢えていた。その城主、伊涅達干(ini tarqanか?)は、酒、食料を持って偽って出迎えた。阿史那賀魯らはその詐術にはまり、城内に入ったところを捕らえられた。蕭嗣業が石国に到着すると鼠耨設は阿史那賀魯の身柄を引き渡した。659年、阿史那賀魯は唐で客死した。また、功績のあった阿史那彌射は、過去(632年)に奚利邲咄陸可汗と号したことがあったことから、冊立して興昔亡可汗の称号を与え、右武衛代将軍、崑陵都護となし、咄陸の五部落を統率させ、また同じく功績のあった阿史那歩真も過去に咄陸葉護と称したことがあったことから、冊立して継往絶可汗の称号を与え、右衛大将軍、濛池都護となし、弩失畢の五部落を統率させた。また、ウイグル(Uyghur)の婆閏も、右衛大将軍兼瀚海都督となった。(典拠:『旧唐書西突厥伝』)
  • 661年顕慶6年、龍朔元年)、ウイグル(Uyghur)の婆閏は兵を率いて蕭嗣業の指揮下で高句麗を討伐した。同年、婆閏は死去した。婆閏の姪(甥か)の比粟毒が五代目のウイグル(Uyghur)の首長となった。
  • 661年10月に比粟毒は、同羅(Toŋra)、僕固(Boqut:僕骨と同じ)と連合して唐の辺境に侵入した。この叛乱は一年半にわたって続き、663年1月に平定されたと旧唐書は記す。
注:この叛乱に関して、婆閏の死と唐の策謀との因果関係があったとする説と、婆閏の死後、唐が比粟毒を後継者として認めなかったためだとする説がある。
唐は、この叛乱に対して、鄭仁泰に命じて、僕固(Boqut)などの部族を攻撃させたので、比粟毒は敗走した。唐は攻め取った地域に天山県を設置した。
その後、旧唐書によると、ウイグル(Uyghur)では下記の首長が瀚海都督として記録されている。
  • 比粟毒(661年680年)…婆潤の甥とするが、子とする史料もある。
  • 独解支(680年-?)…比粟毒の子。
  • 伏帝匐(695年719年)…独解支の子。
  • 承宗(719年-727年)…伏帝匐の子。
  • 伏帝難(727年-743年)…不明。
比粟毒が唐に対して抵抗していた662年に、亀茲を攻めたが、指揮官であった蘇海政は阿史那歩真と阿史那彌射を率いていた。阿史那歩真は阿史那彌射を憎み、阿史那彌射の部落を併合しようと考え、蘇海政に阿史那彌射が謀反を企んでいると讒言した。蘇海政は暗愚で事実がわからず、すぐに将帥を集めて阿史那彌射を誅殺するべく謀をなして阿史那彌射およびその配下を捕らえて斬った。阿史那歩真も667年ごろに死去した。そのため、西突厥の勢力は唐に吸収された。
  • 671年に唐は西突厥の酋長の阿史那都支を左驍衛大将軍とし、匐延都督を兼任させ、咄陸五部落を指導させた。
  • 676年頃になると、阿史那都支は十姓可汗と称し、自ら西突厥の可汗と称して吐蕃と連合して唐の安西に侵攻した。唐は吏部尚書の裴行倹に討伐を命じたが、裴行倹は策をもって鎮圧することを願い出た。唐はそれを認可した。波斯(ペルシア)の王子を送り返す名目で裴行倹は通行した。阿史那都支は計略と疑わずに挨拶にきて捕虜とされた。西突厥に従う諸部族の首領も捕らえて、裴行倹は679年に帰国した。
独解支の時代の後半に、東突厥が再び強勢となったため、ウイグル(Uyghur)にとっては雌伏の時代であった。
  • 679年に単于都護府管内で突厥の大首領の阿史徳温傅と阿史徳奉職の二部族が叛乱を起こし、阿史那泥孰匐を東突厥の可汗として立てた。唐に不満のあった二十四州の首領たちはこれに呼応した。そこで、唐は過去にこの地方での戦いで活躍した鴻臚卿の蕭嗣業を単于大都護府長史として、左領軍衛将軍の苑大智、右千牛衛将軍の李景嘉らに討伐させたが、大敗を喫した。そのため、唐は改めて、礼部尚書の裴行倹を定襄道行軍大総管とし、太僕少卿の李思文、営州都督の周道務、西軍の程務挺、東軍の李文暕を率いて全軍三十万の大軍で討伐することとなった。また、右金吾将軍の曹懐舜に井徑に、右武衛将軍の崔献に絳州の竜門に駐屯させた。
  • 680年、この軍は、黒山で戦い大いに阿史那泥孰匐軍を破った。阿史那泥孰匐は配下の裏切りで殺害された。また、阿史徳奉職を捕らえた。同年、阿史徳温傅は頡利可汗の子の阿史那伏念を夏州から迎えて、黄河をわたって彼を可汗としてたてた。諸部族もこれに呼応した。
  • 681年には、阿史那伏念や阿史徳温傅の軍は原州や慶州に侵攻した。唐は再び、裴行倹を大総管に任命し、右武衛将軍の曹懐舜、幽州都督の李文暕に補佐をさせた。阿史那伏念と阿史徳温傅は詐術を用いて、自分たちが黒沙(カラコルム)に居て、食料が欠乏していて軽装備の騎兵で十分に攻め取ることができるとだました。曹懐舜は、それを信じて進んだが、敵に会わず、薛延陀の残衆を発見して降伏させただけだった。曹懐舜は引き返して長城近くまで来たところで、待ち構えていた阿史徳温傅の軍と戦って敗れた。裴行倹は策略を用いて、阿史那伏念と阿史徳温傅を反目させることに成功した。阿史那伏念を裴行倹は攻撃し破った。阿史那伏念は敗走中に曹懐舜の軍を発見し、それを攻撃し曹懐舜を捕らえた。曹懐舜は阿史那伏念に誓いを立てて許された。しかし、阿史那伏念や阿史徳温傅はもはや逃亡も叶わないとあきらめ、裴行倹に降伏した。阿史那伏念と阿史徳温傅は唐に送られ斬刑に処された。

[編集] 第二突厥の成立とウイグルの雌伏

  • 682年、阿史那伏念の残党を集めた骨咄禄(Qutluq:クトゥルク)がチョガイ山で挙兵した。骨咄禄(qutluq)は頡利可汗の遠縁のもので姓は同じく阿史那氏であった。代々、トドン・チュル(吐屯啜)であった。そして自ら立って可汗と称し、弟の黙啜をšad(シャド:殺)に、咄悉匐を葉護(Yabghu:ヤブク)にした。唐の単于都護府管内の阿史徳元珍はある事件に連座して突厥の降戸部落の監督を免じられていたが、部衆を率いて、Qutluqに降った。Qutluqは、阿史徳元珍を阿波達干(Apa Tarqan:アパ・タルカン)として報いた。突厥は単于都護府の北辺に侵攻し、嵐州刺史の王徳茂を斬った。また、定州にも侵攻したが、北平の李元軌に撃退された。べつに単于都護府を攻め、司馬の張行師を斬り、蔚州の刺史の李思倹を斬り、豊州都督の崔知辯を捕らえた。右武衛将軍の程務挺を単于道安撫大使として東突厥に備えた。
  • 686年、左玉鈐衛中郎将の淳于処平が陽曲道総管となり、東突厥を討つべく出陣したが、忻州で大敗した。また、天官尚書の韋待価を燕然道大総管に任じて東突厥を討伐させた。
  • 687年、東突厥は昌平に侵攻した。唐はそれに対して、左鷹揚衛大将軍の黒歯常之が出撃し撃退した。また、黒歯常之は朔州に侵入した東突厥と黄花堆で戦い、東突厥を大いに破った。右監門衛中郎将の爨宝璧も東突厥を追撃したが大敗した。爨宝璧は則天武后によって処刑された。
  • 690年、東突厥では骨咄禄が死去した。唐では、則天武后が即位し周を興した。東突厥では骨咄禄のあとを弟の黙啜が可汗となり、カパガン・カガン(Qapaghan Qaghan)と称した。黙啜は霊州に侵攻した。周は薛懐義、李昭徳、蘇味道、契苾明、王孝傑、李多祚、陳令英、田揚名ら18将軍に討伐を命じたが、東突厥軍と交戦はできなかった。
  • 695年、伏帝匐(移建頡利発:Irkin Iltäbär)がウイグルの首長となった。
  • 696年、伏帝匐(移建頡利発:Irkin Iltäbär)は唐を助けて、黙啜を攻めた。
  • 同年、契丹の李尽忠が周に対して叛乱を起こした際には、黙啜は周に河曲の突厥の降戸の返還を条件に李尽忠討伐を願い出たので、則天武后は喜び、左衛大将軍、帰国公に任じ、左豹韜衛将軍の閻知微を派遣して国書を与えて黙啜を遷善可汗とした。黙啜は契丹の李尽忠を討伐し、同じく契丹の指導者であった孫万栄の妻子などを手に入れた。そのため契丹は衰退した。則天武后はその黙啜の功績を称え、再び閻知微を勅使として派遣し、黙啜に特進の称号と、頡跌利施(Il Tiriš:イル・ティリシュ:国人集めの意味)大単于立功報国可汗とすることにした。契丹を併合した東突厥はますます強大となった。
  • 698年、黙啜は書状をもって、則天武后の子となりたいと願い、娘を皇族と縁組させたいと願った。さらに河曲六州(豊州、勝州、霊州、夏州、朔州、代州)の突厥の降戸の返還や種粟十万石、農機具3千点、鉄数万斤などを望んだ。則天武后や宰相の李嶠もまた許さなかった。黙啜は使節として東突厥に来ていた司賓卿の田帰道らを拘束した。そのため、仕方なくそれらのものを与えた。そのため、東突厥はさらに強大となった。また、同年、黙啜は娘の婿に則天武后の一族の武延秀がなったことに異を唱え、自分は唐の皇族に嫁がせたいと願っていたが、則天武后がその唐を奪った事実は問題である。唐の子孫は二人しか残っていないそうだが、我々はその方らを唐皇帝に立てなくてはならないと主張し、武延秀を拘禁して、黙啜は十万騎を率いて南下し、静難、平狄、清夷などの軍鎮を攻撃し、静難軍使の慕容玄崱は五千の兵とともに降伏した。周は計45万の兵で防いだが、各所で敗れた。則天武后は唐の中宗を皇太子とした。そのことを聞いた黙啜は揚々と引き上げた。東突厥は強勢となり、土地は東西南北一万里となり、北方の諸族はそれに従った。黙啜は弟の咄悉匐を左察(注:察:šad)、兄の骨咄禄の子の黙矩を右察とし、各々2万の兵を率いさせた。また、子の匐倶は小可汗として位は両察の上とし、処木昆ら十姓(西突厥)の兵4万を指揮させ、拓西可汗とよばせた。
  • 702年、黙啜は塩州、夏州に進行し、羊馬など10万を奪った。
  • 703年、黙啜は、莫賀達干を使者として派遣し、娘を皇太子の子に嫁がせたいと願って和睦を求めた。則天武后は平恩郡王の李重俊と義興郡王の李重明とを使者に会わせた。黙啜は大首領の移力貪汗を派遣して、馬千頭を献上して縁組を喜んだ。
  • 705年、則天武后が退位し、中宗が改めて即位すると、黙啜は、鳴沙に侵攻した。霊武軍大総管の沙吒忠義が迎え撃ったが敗れた。
  • 707年、黙啜は使節の鴻臚卿の臧思言を殺害した。唐は左屯衛大将軍の張仁亶を朔方道大総管にして、東突厥に備えさせた。
  • 710年、唐で睿宗が即位した。黙啜は縁組を望んだ。宋王李成器の娘(睿宗の孫)を金山公主として嫁がせることにした。左羽林大将軍の孫佺らが奚と冷陘山で戦い、敗れ捕虜となった。奚は黙啜に捕虜を献じた。黙啜はそれを殺した。そのため縁組は中止となった。
  • 712年玄宗が即位した。黙啜は子の楊我支特勒を遣わして、唐に仕えさせ、強く縁組を望んだ。
  • 713年、蜀王の娘の南和県主を楊我支特勒に娶わせ、黙啜にその旨を伝え慰撫した。
  • 714年、黙啜は子の移涅可汗に同俄特勒、火抜頡利発の石失畢などの精鋭な騎兵を率いて北庭を攻めさせた。北庭都護の郭虔瓘はそれを迎撃し、同俄特勒を市城の前で斬った。東突厥軍はばらばらになって逃げた。火抜頡利発は帰ろうとせず、その妻子を連れて唐に亡命した。
  • 715年、黙啜はそれまでに娑葛(突騎施の首長)を滅ぼし、契丹や奚を服属させるなど、大いに勢力を広げたが、加齢のためか愚考蛮行が多く、支配下のものにも情け容赦しなくなった。そのため、咄陸五部落の啜や弩失畢五部落の俟斤らは唐に降伏してきた。また、カルルク(葛邏禄)、胡禄屋、鼠尼施の三族に、大漠都督の朱斯、陰山都督の謀落匐雞、玄池都督の蹋実力胡鼻らが領民を率いて内属してきた。これらを唐は金山方面に移住させ、右羽林代将軍の薛訥を涼州鎮軍大総管とし、赤水軍、建康軍、河源軍を指揮させ、涼州に駐屯させた。また、右衛大将軍の郭虔瓘を朔州鎮軍大総管とし、和戎軍、大武軍などを指揮させた。黙啜は葛邏禄などを攻撃したが、その方面の唐の都護や都督、大総管などが連携して応援したので成果はあがらなかった。
  • 716年、黙啜は、九姓(トクズオグズ)を討伐した。思結(Sïqït:イズギル)部、抜野古(Bayïrqu:バイルク)部などを攻め連勝した。しかし、気を緩めた黙啜を抜野古(Bayïrqu)部の軍が襲い斬った。骨咄禄の子の闕特勒(Kül Tägin:キュルテギン)は、東突厥を纏め上げ、兄の黙棘連を可汗に立てた。これが毘伽可汗(Bilgä Qaγan:ビルゲ・カガン)である。毘伽可汗(Bilgä Qaγan)はもともと、小殺(šad)であったが、生まれつき情け深く、兄弟仲がよく、自分が立つことができたのも弟の功績だとして闕特勒(Kül Tägin)に譲ろうとしたが、闕特勒(Kül Tägin)も固辞したため、ついに可汗となった。突騎施の蘇禄が自ら可汗になるなど、新しい東突厥の基盤を磐石ではなかったが、毘伽可汗(Bilgä Qaγan)の舅であるトンニョクク(暾欲谷)が国政に参画するようになると多くのものが、新しい東突厥に従った。
  • 720年、唐は支配下の北方、西方の諸民族に突厥討伐の命を下した。抜悉蜜(Bašmïl:バシミル)の右驍衛大将軍で金山道総管の処木昆執米啜、キルギス(堅昆)都督の右武衛大将軍、骨篤禄毘伽可汗(Qutluγ Bilgä Qaγan:クトゥルクビルゲカガン)、キタイ(契丹)都督の李失活、奚都督の李大酺、突厥の黙啜の子の左賢王たる墨特勒、左威衛将軍で右賢王の阿史那毘伽特勒、燕山郡王の火抜頡利発の石失畢らを終結させ30万の大軍を編成し、御史大夫の朔方道大総管の王晙が総大将となった。東突厥の毘伽可汗(Bilgä Qaγan)はおそれたが、トンニョククはこの作戦のおろかなことを説明して落ち着かせた。戦いの結果、抜悉蜜(Bašmïl:バシミル)は降伏した。
この時期にはウイグル(Uyghur)の勢力はどのようなものであったのかは定かではない。少なくともここに名称が見られないということは勢力が減退していたか、東突厥に服属していたか、それとも近すぎて兵を起こすことができなかったものと思われる。また、716年の戦いの際に、大打撃を受けた可能性もある。
  • 721年、東突厥は唐と和睦を結ぶことを願った。唐を父とし東突厥を子となす約束をした。
このころから、ウイグル(Uyghur)は東突厥と唐の対立がなくなったことから軍役から解放され勢力を拡大し始めた。
  • 725年、東突厥のBilgä Qaγanは大臣の阿史徳頡利発を使者として唐にいき、封禅にも参加した。
  • 727年、吐蕃が東突厥に連合して唐を侵略しようと書状を持ってよこしたが、毘伽可汗(Bilgä Qaγan)はその書状を梅録啜に持たせて唐に届けさせた。
この年、ウイグル(Uyghur)では首長の承宗が涼州都督の王君毚が承宗を無実の罪で皇帝に奏上して瀼州に配流し殺したため、その族子の瀚海司馬の護輸が王君毚を殺害し、安西諸国と長安を結ぶ交通を遮断した。承宗の後は、伏帝難が継いだ。護輸は後に、突厥に逃亡した。護輸の子、骨力裴羅(Qutluγ Boila:クトゥルク・ボイラ)はウイグル(Uyghur)に残った。
  • 731年、闕特勒(Kül Tägin)が死去した。
  • 734年、毘伽可汗(Bilgä Qaγan)が梅録啜に毒を盛られたことが原因で死去した。毘伽可汗(Bilgä Qaγan)の子、伊然可汗(Inäl Qaγan:イネル・カガン)が後を継いだ。
  • 740年、イネル・カガンが死去し、弟が後を継いだ。これがBilgä Qutluγ Qaγan(ビルゲ・クトゥルク・カガン:苾伽骨咄禄可汗)である。唐は、登里可汗(Täŋri Qaγan:テングリカガン)とした。
  • 741年、東突厥の内部で騒乱があり、可汗が右殺である叔父を殺害し、もう一人の叔父の左殺の判闕特勒によって殺害される事件があり、その後、判闕特勒によって二人が可汗に擁立されたが、骨咄葉護(Qutluγ Yabghu:クトゥルク・ヤブク)によって殺害された。骨咄葉護(Qutluγ Yabghu)は自ら可汗となった。
  • 742年、突厥に長年支配されてきた大部族の回紇(Uyghur:ウイグル)、葛邏禄(Qarluq:カルルク)、抜悉蜜(Bašmïl:バシミル)が連合して立ち上がり、反突厥同盟を結び、骨咄葉護(Qutluγ Yabghu)を攻め滅ぼした。そのなかでも大きかった抜悉蜜(Bašmïl)の首長を立てて頡跌伊施可汗(Il Tiriš Qaγan:イルティリシュカガン)とした。
  • 743年、突厥では、判闕特勒の子を立てて、烏蘇米施可汗(Özmiš Qaγan:オズミシュカガン)とし、その子の葛臘哆を西殺とした。抜悉蜜(Bašmïl)、回紇(Uyghur)、(葛邏禄Qarluq)の三部が再び侵攻し、烏蘇米施可汗(Özmiš Qaγan)を攻めた。葛臘哆は唐に降り、懐恩王となった。

[編集] ウイグル帝国の誕生

8世紀初頭、ウイグルには9つの部落があり、これを九姓回紇(≠九姓鉄勒)とよぶ。それらを以下に記す。

1:薬羅葛(ヤグラカル: Yaγlaqar)
2:胡咄葛(Quturγar)
3:啒羅勿=倶羅勃(Küräbür)
4:貊歌息訖
5:阿勿嘀
6:葛薩(Qazar)
7:斛嗢素
8:薬耶勿(Yaγmurqar)
9:奚耶勿=愛邪勿
それぞれに、一人の都督が置かれており、9の都督がいる。
  • その後(743年か?)、Uyghurの首長となったQutluγ Boila(クトゥルク・ボイラ:骨力裴羅)はYabghu Iltäbär(葉護 頡利吐発『旧唐書』・葉護 逸標苾『唐会要』)と名乗り、使者を唐へ派遣し、奉義王に封じられた。
  • 744年、Bašmïl、Uyghur、Qarluqの三部はÖzmiš Qaγanを斬り、唐にその首を送った。

[編集] ウイグルの独立

  • 744年、Yabghu Iltäbärは、反突厥同盟の盟主であったが横暴な振る舞いの目立つ、BašmïlのIl Tiriš Qaγanを攻撃し、撃破し斬った。また、子の磨延啜がQarluqを討ち破った。

[編集] 初代可汗「Qutluγ Boila」即位

  • そして自ら、Kül Bilgä Qaγanと称し、使者を唐に派遣した。唐では彼を冊立して懐仁可汗となした。その際、九姓回紇部落にBašmïl、Qarluqを足して十一姓回紇と称した。
  • また、本営をÜtükän.(烏徳鞬山)とOrqon.(嗢昆河)との間に移した。これらの戦いの結果、Uyghurは九姓鉄勒の地をすべて支配することになったと新唐書回鶻伝は記す。
注:旧唐書にみえる「骨咄禄 毘伽 闕 可汗」は元の名である骨咄禄=Qutluγ BoilaのQutluγにKül Bilgä Qaγanの語順を間違えてBilgä Kül Qaγanを漢音表記したものであると推測されている。
  • 745年、Kül Bilgä Qaγanは突厥軍を攻撃し、白眉可汗(Özmiš Qaγanの弟)を討ち取った。頓啜羅達干に唐に報告させた。唐は、その功績を認め、左驍衛員外大将軍とした。Kül Bilgä Qaγanは、領土を拡大し、東は室韋、西は金山(アルタイ山脈)、南は大砂漠までという古代匈奴の領地をことごとく獲たと新唐書は伝える。

[編集] 二代可汗「磨延啜」即位

  • 747年、Kül Bilgä Qaγanは崩御した。その子、磨延啜が継いだ。磨延啜は即位し、Täŋridä Bolmiš Il Itmiš Bilgä Qaγan(登里囉 没蜜施 頡 翳徳蜜施 毘伽 可汗)と称した。
『新唐書回鶻伝』は彼を「すばやく、荒々しい人物で、兵を用いることが巧みであった」と伝えている。また、「毎年、使者を派遣して入朝した」と伝える。

[編集] 安史の乱勃発

  • 755年、唐では安禄山が叛乱(安史の乱)を起こした。(典拠:『旧唐書廻紇伝』・『新唐書回鶻伝』)
  • 756年至徳元載)の7月、唐では玄宗が退位し、皇太子の李亨が避難先の霊武で即位した。これが唐の粛宗である。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • 756年、8月に粛宗は諸国に叛乱鎮圧の援軍要請の使者を派した。回紇には故邠王李守礼の子、李承宷を敦煌郡王に封じて、将軍で西域出身の石定番、回紇にゆかりの深いBoqut(僕骨)出身の僕固懐恩などを補佐につけて派遣し、回紇に援軍の要請をさせた。
注:『旧唐書廻紇伝』、『新唐書回鶻伝』ともに回紇の使者が来て、唐を援助して安禄山を討ちたいとう請うたとするが信じ難い。援軍要請があって後にUyghurは要請に応えて出兵したと解したほうがよい。

[編集] ウイグル、唐へ援軍を派兵

  • 敦煌郡王承宷らは王廷内のQaγanの本営でTäŋridä Bolmiš Il Itmiš Bilgä Qaγanに面会した。Täŋridä Bolmiš Il Itmiš Bilgä Qaγanは遥々来た敦煌郡王承宷を温かく迎え、王女(典拠:旧唐書)または可敦の妹を王女となした(典拠:新唐書)。王女の名はBilgä Qunčuj(毘伽公主)といい、この女性を承宷に娶わせた。Täŋridä Bolmiš Il Itmiš Bilgä Qaγanは配下の将軍を粛宗の元へ派遣した。粛宗は彭原(甘粛省)へ赴いてUyghurの使者を迎え厚くもてなした。それに応えて、Täŋridä Bolmiš Il Itmiš Bilgä Qaγanは自ら兵を率いて、朔方節度使の郭子儀の軍と合流し、安禄山に同調する同じ九姓鉄勒のToŋra(同羅)などを黄河の畔で撃破した。そして郭子儀と呼延谷でおいて会見した。郭子儀はTäŋridä Bolmiš Il Itmiš Bilgä Qaγanが強大であり、その精鋭を唐のために使用することを恩に感じ、Uyghurの狼頭の纛(テュルク族が神を崇め、祖先神と讃える狼の飾りを頭につけた旗)に拝礼してからかTäŋridä Bolmiš Il Itmiš Bilgä Qaγanとの会見に臨んだ。また、粛宗に謁見した葛羅支(Qalačか)は末席であったのでそれを恥じた。粛宗は援軍を得られなくなってはと思い、席を昇らせ、慰めてから送り出した。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • 757年(至徳二載)1月、安禄山が安慶緒に暗殺される。
  • 757年の2月、回紇は大将軍の多攬ら15名を使者として派遣した。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
注:大将軍の多攬は鉄勒系のTäläŋüt(多覧葛部族)の長と考えられ、強大となったUyghurは、隋代には同じ程度の規模の部族とされていた同じテュルク系のTäläŋütを従えて臣下の列に加えていたことがわかる。
  • 757年9月、戊寅の日に、Uyghurの王女を娶った敦煌郡王承宷に開府儀同三司(文官で最高の散官)の官を加えて、宗正卿に任じ、廻紇の公主を娶って后とさせた。廻紇はその皇太子(Täŋridä Bolmiš Il Itmiš Bilgä Qaγanの子)のYabghu(葉護)を派遣し、将軍の帝徳らの兵馬四千余の部衆を率いさせて、唐を援け、安慶緒を討たせることにした。粛宗は盛大な宴を行い、安慶緒討伐の唐の総大将に任命された元帥の広平王李俶に命じて、Yabghuと面会し、兄弟の約束をさせ、手厚い恩義を施して、援軍の将のUyghurの皇太子Yabghuを遇した。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
注:兄弟の誓いをした際に、広平王李俶を兄とし、Yabghuを弟としたと旧唐書にはあるが、新唐書にはその記載はない。当時の状況から判断すると、この兄弟の順序は反対であったのが事実で、旧唐書では曲筆したが、新唐書では曲筆された部分をさけて記載しなかったと解釈する説と、当時、唐は大国であり、Uyghurは新興国であったことから旧唐書の記載は正しく、新唐書では単に重要事項として扱わず欠落したと解釈する説がある。また、単純に、広平王李俶が年長者でYabghuは若年であったため、兄弟の順を決めたと解釈する説もある。
  • 757年9月、戊子の日に、Uyghurの大首領のTarqan.(達干)ら13名が扶風(陝西省、渭水の北岸)に来て、朔方節度使の将士と会った。天徳軍使兼九原太守朔方節度右兵馬使の郭子儀はこの一行を留めて、三日間の宴を開こうとした。Yabghu(葉護太子)は、
「唐の国家に危難があるために、私は遠方から来て御援助しようとしているのです。どうして宴会をして暇をつぶしておれましょうか」
と言ったが、郭子儀は固くこれを引き止めた。宴が終わるとYabghuは直ちに出発した。その軍隊には毎日、羊200匹、牛20匹、米40石が食糧として給与された。元帥、広平王俶は郭子儀らを率いて香積寺の東20里の地点に到着すると、西方は澧水に臨んだ。安慶緒軍は精鋭の騎兵を唐軍の本陣の東に隠し、唐軍の背後を襲撃しようとした。朔方左廂兵馬使の僕固懐恩はUyghurの軍隊を差し招いて、馳せてこれを救助させ、敵の1匹の馬も逃がさず、ことごとく倒した。そこで、唐軍は安慶緒軍の背後に出て、鎮西北庭節度使李嗣業とともに、挟み撃ちにして、これを包囲した。安慶緒軍は大敗したので、これによって唐軍は西京(京兆府長安)を占領した。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
注:食糧について、旧唐書は「羊200匹、牛20匹、米40石」とする。新唐書は「牛40角、羊800蹄、米40斛」とする。

[編集] 新店の戦い(757年10月)

  • 757年10月の記事に関して史料に大きな齟齬があるため、双方を記述する。

[編集] 【旧唐書廻紇伝】
  • 広平王俶および副元帥の郭子儀はUyghurの兵馬を率いて安禄山軍と陝州(河南省)の西において安慶緒軍と戦った。郭子儀は最初、平陽府曲沃県に布陣した。Yabghuは配下の将軍の車鼻施吐撥裴羅らをして南山に沿って東へ進ませ、谷の中で安慶緒軍の伏兵と遭遇して、これを全滅させた。郭子儀は新店に至り、安慶緒軍に遭遇して戦ったが、郭子儀の軍は数里退却した。Uyghurは唐軍が山を越え、嶺上を西方へ進み、白い旗を靡かせたのを望見して、進んでこれを攻撃し、直ちにその背後に出たので、安慶緒軍は大敗して逃げ、塹壕を掘った。唐軍は逃げる安禄山軍を20里余追撃すると、人馬は重なりあい、互いに踏み躙られて、死者は数えきれぬほどであった。唐軍は安慶緒軍の首を十余万も斬った。地上に倒れ伏した屍は30里も続いた。
  • 安慶緒軍の厳荘は馳せて、この敗戦を安慶緒に報告した。安慶緒はその軍勢を率いて、東京(河南府洛陽)を後にして敗走し、黄河を渡った。そこで、Yabghuは広平王俶、郭子儀に従い、東京に入城した。これより以前のことであるが、Uyghurが西京を占領し城中に入って掠奪しようとしたが広平王俶が阻止したことがあった。東京を占領すると、Uyghurは皇帝の財物庫に押し入り、財宝や絹を押収し、城内や町村で3日間も掠奪した。掠奪した財物は数えきれぬほどであった。広平王俶はYabghuに錦、毛氈、宝、貝を贈り物として与えた。Yabghuは喜んだ。

[編集] 【新唐書回鶻伝】
  • 僕固懐恩はUyghur、南蛮、大食(アラビア)の部隊を率いて都を取り巻き、南下して滻水の東に砦を築き、さらに進んで陝州の西に至り新店で戦った。最初、Uyghurは山西の曲沃に至り、Yabghuは将軍の鼻施吐撥裴羅をして南山に沿って東に出て、安慶緒軍が谷の中に伏しているのを探してこれを全滅させて、山の北側に駐営した。郭子儀らは安慶緒軍と戦い、全力を挙げて安慶緒軍の逃げるのを逐うたが、乱戦となって退却した。Uyghurはこれを望見して、西嶺を越えて旗を靡かせ、安禄山軍の方へ進みより、その背後に出た。安慶緒軍はその背後を攻められて、ついに大敗を喫した。Uyghur軍は数十里も追撃したが、安慶緒軍の人馬はあい重なり、踏み躙りあい、そのための死者は数えきれなかった。
  • Uyghur軍の獲得した武器は小山のように積み上げられた。安慶緒軍の厳荘は安慶緒を小脇に抱えるようにして逃げ、東京(河南府洛陽)を棄てて、北の方を目指し黄河を渡った。Uyghurは3日間、東都(河南府洛陽)を大いに掠奪した。姦悪な人々がUyghurを府庫(宮廷の財物庫)に案内したので、府庫の財物は尽きて空になった。広平王俶がこれを制止しようとしたが効果がなかったので、長老たちが繒錦万匹を賄賂としてUyghurに贈った。そこでUyghurはやめて、掠奪をしなかった。
『旧唐書廻紇伝』では、唐軍の指揮を執っていたのが、「広平王俶および副元帥の郭子儀」であるのに対し、『新唐書回鶻伝』では、トルコ系の「僕固懐恩(Boqut:僕骨部族出身)」である。後に、僕固懐恩が叛乱を起こしたために、当時の史料の改竄があり、『旧唐書廻紇伝』は誤った史料に基づいて記述されたか、『旧唐書廻紇伝』の編者が内乱の鎮圧に異民族のUyghurの力を頼ったうえに、唐軍の指揮権さえ、異民族出身の僕固懐恩にゆだねられていた事実を削除したかったのではないかと理解されている。
この戦いにおける唐軍の指揮官は僕固懐恩であり、援軍の指揮官はUyghurのYabghuであった。また、参加した軍はUyghur、唐、南蛮、大食(アラビア)など。
また、この戦いのあった地点は、新唐書の記載のとおり、「新店」である。戦いの展開は、まず、Uyghurの将軍の(車)鼻施吐撥裴羅(ら)が南山に沿って東へ向かって進軍し、安慶緒軍の伏兵が谷の中にいるのを察知し、探し出して全滅した。それを知った安慶緒軍は撤退を開始するが、それを郭子儀らが全力を挙げて新店へ進み、安慶緒軍を追撃するが、安慶緒軍が反撃し乱戦となり、郭子儀らは退却した。Uyghur軍は敗走する郭子儀らを望見して、西嶺を越えて旗を靡かせて安慶緒軍の方へ進みより、その背後に出て、Uyghur軍は安慶緒軍を攻撃し、大勝利をおさめた。安慶緒軍は敗走したが、それをUyghur軍は数十里も追撃し、安慶緒軍に壊滅的な打撃を与えた。
  • 安慶緒軍の厳荘は敗戦を安慶緒に報告し、Uyghurの強さに恐怖して西京(河南府洛陽)を放棄し黄河を渡って北へ逃げた。Uyghurは3日間、掠奪した。姦悪な人々がUyghurを府庫(宮廷の財物庫)に案内したので、府庫は尽きて空になった。広平王俶がこれを制止しようとしたが、戦いに敗れた広平王俶には制止するだけの威厳はなかった。広平王俶はYabghuに錦、毛氈、宝、貝を贈り物として与えた。YabghuはUyghur軍に掠奪をやめさせた。安慶緒はこの戦いで没落し、叛乱は安禄山の部将であった史思明が受け継いだ。
このように、この戦いの主役はUyghurのYabghuであり、将軍の(車)鼻施吐撥裴羅らであり、僕固懐恩であった。
  • 757年11月癸酉、UyghurのYabghuは京師(西京、長安)に帰還した。粛宗は百官に勅してYabghuらUyghur軍を長楽駅に出迎えさせた。粛宗は宣政殿に臨御して宴を開いてYabghuを労った。Yabghuは殿に昇り、他の首領たちも階下に列をつくってならんだ。粛宗は錦、繍、繒、綵、金銀の器皿をYabghuに贈った。Yabghuが暇乞いをしてUyghurに帰るにあたって、粛宗は、「よく国家のために大事を成し遂げ、義勇をなしたのは卿らの力である」と言った。Yabghuは、「Uyghurの戦兵は沙苑に駐屯しております。今は一旦、霊夏に帰還し、新たに馬を取って来て、その上で范陽を占領している残賊(史思明軍)を討伐するつもりです」と言った。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • 757年11月己丑の日、粛宗は詔勅を下してこう述べた。
「葉護(Yabghu)の功績は艱難を救い、その大義は国家を保ってくれた。葉護の国は唐と万里も離れたはるか遠い地方ではあるが、唐と徳を一にし、心を同じくするものである。このような事実を古今に求めようとしても、いまだ聞いたことはないことである。廻紇の葉護は特別に英姿を天から授かり、人よりぬきんでていて、人知れぬ計略を生んだ。その言は必ず忠信であり、その行いは温良をあらわし、その才は万人にも匹敵し、その位は北方諸蕃族の筆頭に連なっている。唐においては凶悪にして醜いやからが人道を乱したため、中原はまだ不安な状態に陥っている。可汗は唐と兄弟の約束があることによって、国家のために父子の軍をおこし、その智謀を発揮し、あの凶悪なる逆賊を討伐した。ひとたび太鼓を鳴らして勇気をふるい、万里の遠きに渡って敵の鋒をくじいたので、二十日間で両京(長安と洛陽)は奪還された。その力は山岳を抜くほどに強く、その精神は風や雲を貫くほどにたくましかった。葉護は犯されてもその労を辞すことはなかったし、難事に急いで立ち向かっても、その分際を超えることはなかった。もとより、そのことは日月に懸け、その子孫に伝えるべき事柄である。分土に封じたり、封爵の誓いという恩賞のみにどうしてとどめておけようか。それ、位の崇高なのは司空が第一であり、名誉の大なるものは封王が最高である。それゆえ、葉護を司空となし、忠義王に封ずべきである。唐は葉護に毎年、絹2万匹を送り、それを朔方軍に届けるから、葉護はよろしく使者を派遣してこれを受領せよ。(典拠『旧唐書廻紇伝』)
  • 758年(乾元元年)5月壬申朔の日、廻紇の使者の多亥阿波(apa)ら80人、黒衣大食(Tajik)の酋長の閣之(Qādī)ら6人は同時に参内して謁見しようとし、宮門へ来て、先頭順位を争った。そこで、通事舎人は両国の使節団を左右に分け、東門と西門から同時に入らせた。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)

[編集] 唐帝室との婚姻

  • 回鶻の使者は唐と回鶻の婚姻を求めたので、粛宗はこれを認めた。(典拠:『新唐書回鶻伝』)
  • 758年6月戊戌の日、粛宗は紫宸殿の前で廻紇の使者に宴を賜った。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • 758年7月丁亥の日、粛宗は詔勅を下して、幼少の王女を封じて寧国公主(粛宗の第二女または第七女)となし、廻紇の可汗に嫁がせることにした。この公主が嫁ぐ日に、堂弟の漢中郡王瑀を特進試太常卿摂御史大夫に任じ、瑀を英武威遠毘伽可汗に充て、堂姪の左司郎中巽を兵部郎中摂御史中丞鴻臚卿となして、その副使に充て、兼ねて寧国公主礼会使に充てた。また、特別のはからいによって、重臣の開府儀同三司行尚書右僕射冀国公裴冕を派遣して、公主を送って、国境まで行かせることとした。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • 758年7月癸巳の日、廻紇のTäŋridä Bolmiš Il Itmiš Bilgä Qaγan(英武威遠毘伽可汗)を冊立するために、粛宗は宣政殿に臨御し、漢中王瑀は冊命を受領した。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • 758年7月甲午の日、粛宗は寧国公主を送って咸陽の磁門駅に赴いた。公主は泣いて、「国家の事は重いものでございます。妾は死んでも恨みはございません」と言った。粛宗は涙を流して帰還した。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • 漢中郡王瑀が廻紇の本営に到着すると、Täŋridä Bolmiš Il Itmiš Bilgä Qaγanは胡帽と赭黄(『新唐書回鶻伝』)では「赭」)色の袍を身に着け、帳幕のなかに(『新唐書回鶻伝』では「榻に」)坐し、その儀礼や護衛のありさまは厳かであった。Täŋridä Bolmiš Il Itmiš Bilgä Qaγanは、漢中郡王瑀をつれてきて帳幕の外に立たせ、漢中郡王瑀に対して、
「王は天可汗(Täŋri Qaγan)のどういう親戚にあたるのか」
と言った。漢中郡王瑀は、
「私は唐天子の堂弟(『新唐書回鶻伝』では「従弟」)であります」
と答えた。Täŋridä Bolmiš Il Itmiš Bilgä Qaγanはまた、
「王の上手に立っている者は誰であるか」
と問うと、漢中郡王瑀は、
「その者は中使の雷盧俊であります」
と答えた。Täŋridä Bolmiš Il Itmiš Bilgä Qaγanは、
「中使は下僕であるのに、どうして主人の上手に立つことができるのか」
と言った。これを聞いて、雷盧俊は恐れおののいて、飛ぶようにして下手に引き下がって立った。漢中郡王瑀はTäŋridä Bolmiš Il Itmiš Bilgä Qaγanに対して拝礼しないで立っていたので、Täŋridä Bolmiš Il Itmiš Bilgä Qaγanはこれに対して、
「両国の君主は互いに君と臣という礼儀関係にある。それなのに汝はどうして私に拝礼できないか」
と言った。漢中郡王瑀が言うに、
「唐の天子は可汗の功績があるがゆえに、王女を嫁に出して、可汗と婚姻の誼を結ぶのです。近頃、蕃族と和親を結ぶに際しては、みな、宗室の王女に公主という称号を与えて降嫁させています。ところが、寧国公主は天子の実の王女であって、さらに美貌と徳を備えており、これを万里の遠い地方に嫁に出して、可汗も娶わすのです。つまり、可汗は唐帝室の天子の女婿にあたります。ゆえに、可汗はよろしく礼儀を整えるべきであります。どうして榻の上に坐って詔命を受けることができるでしょうか」
可汗はそこで立ち上がって、詔を奉じて冊命を受けた。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • 翌日、公主を冊して可敦(Qatun)とした。蕃族の酋長たちは喜んで「唐国の天子は、貴く、おもおもしい人である。実の王女を嫁にくれた」と言った。漢中郡王瑀が送った国信、繒(うすぎぬ)、綵(あやぎぬ)、衣服、金銀の器皿を、可汗はことごとく宮廷の役人や酋長らに分かち与えた。漢中郡王瑀が帰国するに際し、可汗は馬五百匹、貂の裘(かわごろも)百畳(『新唐書回鶻伝』では「白氎」)を送った。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • 758年8月、廻紇は王子の骨啜特勒および宰相帝徳らの勇将三千人をして唐の国を助けて賊軍(史思明軍)を討たせた。粛宗は彼らが遠方から来たことを誉めて、宴会を行い、朔方行営使に随うように命じ、僕固懐恩を派遣して指揮をとらせた。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • 758年9月甲申の日、廻紇は大首領の蓋将軍らを派遣して、公主の婚儀について御礼を述べて、兼ねて、堅昆(Qïrqïz:キルギス)5万人を破ったことを報告した。粛宗は紫宸殿で宴会をして、それぞれに引き出物を与えた。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • 758年12月甲午の日、廻紇は3人の婦人を使者として唐へ派遣し、寧国公主の婚儀について御礼を言上したので、紫宸殿で宴会を行った。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)

[編集] 再度の援軍派遣

  • 759年乾元2年)廻紇の骨啜特勒らは部衆を率い、郭子儀に従って九節度使とともに、史思明軍と相州(河南省)城下で戦ったが勝つことができなかった。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • 759年3月壬子の日、廻紇の王子骨啜特勒および宰相帝徳ら15人は相州から西京(長安)に逃げこんだ。粛宗は彼らのために紫宸殿で宴会を開き、それぞれ引き出物を与えた。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • 759年3月庚寅の日、廻紇の骨啜特勒は暇乞いして、その行営に帰ることになったので、粛宗は紫宸殿で送別の宴を開き引き出物を与えた。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • 759年3月乙未の日、廻紇の王子を新たに左羽林軍大将軍員外置に任じ、骨啜特勒を銀青光録大夫鴻臚卿員外置とした。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)

[編集] 三代可汗「移地健」即位

  • 759年4月、廻紇の毘伽闕可汗(『旧唐書廻紇伝』の誤記で事実は第二代の「磨延啜可汗・英武威遠可汗」)が死去した。その長子の葉護(Yabghu)は以前に殺されていたので、廻紇は末子の登利可汗を即位させ、その妻を可敦とした。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)

[編集] 寧国公主の葬儀の儀礼と唐への帰国

  • 759年6月丙午の日、唐朝は左金吾衛将軍李通を試鴻臚卿摂御史中丞となし、廻紇を弔祭する施設に充てた。これよりさき、毘伽闕可汗(『旧唐書廻紇伝』の誤記で事実は第二代の「磨延啜可汗・英武威遠可汗」)が死んだとき、その宮廷の役人、都督らは、寧国公主を殉死させて一緒に葬ろうとした。公主は、
「唐の儀礼では婿が死ぬと妻はすぐに喪に服し、朝晩泣き叫び、三年間、喪服を着るのです。いま、廻紇が唐の婦人を娶ったからには、すべからく唐の儀礼を慕うべきであります。もし、今、私がこの国(廻紇)の法に従うのでしたら、どうして万里の遠国との婚姻が必要でしょう」
と言った。しかし、公主もまた廻紇の法に従い、顔面を切って(古代テュルク諸族が葬礼の際に行う剺面儀礼のひとつ)大声で泣いた。結局は、公主は子を持っていなかったという理由で、唐に帰還することができた。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • 759年8月、寧国公主は廻紇から還った。粛宗は百官に詔して、長安城の明鳳門外においてこれを出迎えさせた。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • 760年上元元年)9月己丑の日、廻紇九姓可汗は大臣の倶陸場莫賀達干(Külüg Baγa Tarqan)を唐に派遣し、国書を奉呈し、(『新唐書回鶻伝』の記載から推定すると「寧国公主」の)ご機嫌伺いをした。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)

[編集] 唐との外交

  • 760年9月乙卯の日、廻紇の使者20人が延英殿において謁見し、それぞれ贈り物を受けた。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • 760年11月戊辰の日、廻紇の使者延支伽羅ら10人が延英殿で謁見し、それぞれ贈り物を受けた。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • 761年、史思明が子の史朝義によって殺される。

[編集] 唐の代宗即位とウイグルの出兵

  • 762年宝応元年)代宗(元の広平王俶)が即位し、名を改名し、「俶」を「豫」にした。
  • 762年、代宗が即位したが、当時、史朝義がなお河洛にいたので、中使劉清潭を派遣して廻紇から軍隊の出動を求め、また、旧好を収めようとはかった。その秋(『資治通鑑』によると9月)、劉清潭は廻紇の宮廷に到着した。ところが廻紇はすでに史朝義から
「唐家の天子はたびかさねて亡くなられ、国が乱れ、主君はいません。軍隊を派遣してきて、府庫を手に入れたらいかがですか」
と誘惑され、そこで登利可汗は部衆を率いて南に向かったが、それはすでに8月のことであった。劉清潭は勅書と国信を持ってきたが、可汗は
「唐家にはもはや主君がいないと聞いている。いまさら勅書などあるはずがない」
と言った。中使劉清潭はこれに答えて、
「わが唐家の天子(粛宗)は崩御して、帝位にはいないが、後嗣の天子となった広平王(代宗)は、天性が英武であって、先年は廻紇の葉護(Yabghu)の軍とともに両京を奪還し、安慶緒を破り、したがって可汗と縁故があります。そのうえ、毎年、可汗に数万匹の繒絹を贈っています。可汗はどうしてこのことをお忘れになってよろしいでしょうか。」
と言った。しかしながら廻紇はすでに軍隊を出発させて三城の北まで到着していた。荒廃した城に守備兵がおらず、州県がことごとく空塁となっているのを見て、廻紇の軍隊は、唐を軽視する気持ちになった。そこで廻紇は使者を派遣し、北方の単于都護府の兵馬と食糧を奪取し、また、劉清潭をひどく侮辱した。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • 劉清潭は、連絡の使者を唐朝へ送ってきて、奏上して、
「廻紇の登利可汗は、国を傾けて、自ら侵攻しており、その部下の10万を算し、羊馬の数は計りしれない」
と報告した。京師の住民はたいへん驚き、代宗は殿中監薬子昂を廻紇の軍へ急いで派遣して、これをねぎらわせた。太原の北、忻州の南まで来た薬子昂はひそかに数えてみると、廻紇軍の壮丁が4千人おり、老幼婦人を合計すると1万人あまりと、戦馬が4万匹おり、牛と羊は数えきれないほどであった。これより以前の話であるが、毘伽闕可汗(『旧唐書廻紇伝』の誤記で事実は第二代の「磨延啜可汗・英武威遠可汗」)はその子の結婚を唐に請うたので、粛宗は僕固懐恩の娘をその嫁にしたが、このときには可敦となっていて、可汗と一緒にやって来て、僕固懐恩および僕固懐恩の母に会いたいと請うてきた。代宗は僕固懐恩に勅し、汾州から太原へ行かせて可敦に会わせた。僕固懐恩は登利可汗に対し、国家の恩義と信頼に背いてはならぬと諫めた。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
762年の上記の記事内容は辻褄が合わない点が多い。唐へ侵攻を決断し、可汗が出兵したにしては、可汗の妻である可敦が同行して、唐に使える父(僕固懐恩)に会いたいといって、唐の要職にある僕固懐恩が出向いて会っている。実際は、この事件に関しては、唐朝および劉清潭の判断ミスと考えられている。
可汗が『史朝義討伐』の軍を起こしたが、
  • 「劉清潭は何らかの事情でその軍を唐への侵攻軍と間違えて誤報した」とする説
  • 「劉清潭が使者の役目に失敗するか、可汗ら廻紇首脳と間隙が生じ、廻紇および可汗が唐に背いたという虚偽の報告をした」とする説がある。
中国の一部の史家は、
「廻紇は真に侵攻する意図を持っていたが、唐がそれに対する備えをしていたのであわてて方針転換を図った」とする説
を唱えているが、『旧唐書廻紇伝』の「荒廃した城に守備兵がおらず、州県がことごとく空塁となっているのを見て」という文言と合致しないことから少数意見に留まっている。
  • 回紇は、最初は蒲関(蒲津関、陝西省朝邑県の東で黄河の渡しに附随する関)よりはいり、沙苑(陝西省大荔県の南)街道をとって、潼関を経て東へ向かい、賊軍(史朝義軍)を破る計画をたてた。薬子昂はこれに説いて、
「唐国は、しきりに侵略と反乱に遭ったため、州県は窮乏していて、糧食を提供しにくい状態です。おそらく可汗は失望なさることでしょう。土門(河北省、山西省境の井陘県にある関)街道をとって進出し、ただちに、邢(河北省邢台県)、洺(河北省永年県)、衛(河南省汲県)、懐(河南省)の諸州を占領するのがよいと思います。賊軍(史朝義軍)の中の兵馬はことごとく東京(洛陽)におりますから、可汗はその財帛、衣服を手に入れて、南に向かうのがもっとも良策と思います。」
と言った。しかし、可汗はこれに従わなかった。薬子昂はまた説いて、
「懐州、太行街道をとって南進し、河陰(河南省河陰県)の険に拠り、ただちに敵の喉をおさえるのもまた良策であります。」
と言ったが、可汗はこれにも従わなかった。薬子昂はまた説いて、
「陝州(河南省陝県)、太陽津(陝県の北にある黄河の渡し)の街道をとり、太原倉にある粟を食糧として東へ進み、澤(山西省晋城県)、潞(山西省長治県)、河南、懐(河南省)、鄭(河南省)の節度使といっしょに進軍するのもまたよい方策であります。」
と言った。可汗はこの言に従った。薬子昂はそこで宮中に赴いて、このことを代宗に奏上した。代宗は雍王适を兵馬元帥となし、僕固懐恩に同中書門下平章事の官職を加え、また、薬子昂に御史中丞の官職を兼ねさせ、前の潞州刺史兼御史中丞魏琚とともに左右廂兵馬使となし、中書舎人の韋少華を元帥判官兼掌書記に任命し、給事中の李進に御史中丞を兼任させ、元帥行軍司馬に充て、東の方、廻紇の登利可汗の本営に陝州、黄河の北で合流させた。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • 帥雍王适は薬子昂らを従え、登利可汗と会見した。可汗が張前で拝舞の礼をなさず、その態度が傲慢であることを責めた。薬子昂は、
「元帥は粛宗の嫡孫であって、亡くなられた二人の皇帝の柩がなおまだ殯宮におられるから、拝舞の礼をなすべきではない」
と言って拒否した。廻紇の宰相と車鼻将軍は、面前でなじって
「唐の天子は登利可汗と約束して兄弟となっている。今、可汗は雍王适の叔父にあたるわけである。叔父と甥の間には礼儀があるはずである。どうして拝舞できないのか」
と言った。薬子昂は
「身は喪中にあるから、拝舞することは儀礼上、不都合なことである」
と逃げ口上を言って拒絶した。薬子昂はさらに申し立てて、
「元帥はすなわち唐の太子です。太子とはすなわち後継の君です。中国の帝位の後継たるものがどうして外国の可汗の面前で拝舞できましょうか」
と言った。たがいに押し問答のあげく、ついに車鼻将軍は薬子昂、李進、韋少華、魏琚を引っぱり出して、おのおの百回、棒で打った。韋少華と魏琚は棒で打たれたことがもとで、一晩たって死んだ。雍王适は、少年であって物事を十分に心得ていないという理由で放免され本営へ還った。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • 固懐恩は廻紇の右殺と先鋒になり、もろもろの節度使たちといっしょに賊を攻めてこれを破った。史朝義は残賊を率いて逃走した。元帥雍王适は退却して霊宝(陝西省霊宝県)に帰った。廻紇の可汗は引き続いて河陽(河南省孟県)に進軍し、幕営をならべて数ヶ月ここに駐屯した。幕営より百余里のあいだでは、人々は掠奪と凌辱をうけ、その害悪に堪えきれなかった。僕固懐恩は常に軍の殿軍となっていた。節度使たちが河北の州県を占領するに至って、僕固瑒は廻紇の部衆とともに二千余里も追跡して平州石城県にいたって、史朝義の首を梟して帰り、このようにして河北はことごとく平定した。僕固懐恩は相州(河南省安陽県)の西より、崞口路に出て西へ向かい、可汗は河陽の北を経由して、澤、潞に出て、僕固懐恩と合流し、太原を経て、使者の抜賀那を派遣して、表を奉って、東京を回復したことの祝いを申し述べ、同時に逆賊史朝義の軍旗などの品々を謙譲してから、暇乞いして蕃地へ帰った。この際、代宗は可汗を内殿に引見し、綵200段を与えた。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • 763年宝応2年)正月、史朝義の首が京師に届いた。(典拠:『資治通鑑』)
  • 763年2月甲午の日、廻紇の登利可汗が暇乞いして蛮地へ帰った。(典拠:『旧唐書代宗本紀』)
上記の記述には矛盾する内容がある。それは廻紇の登利可汗が帰国した時期である。『旧唐書廻紇伝』では762年の年末には帰国したかに記載されているが、『旧唐書代宗本紀』では翌年の763年の2月に帰国したとなっている。
  • これより以前のはなしであるが、廻紇が東京(洛陽)に来ると、かれらは、賊が平定されたことを理由に、ほしいままに残忍な振る舞いをしたので、男女はこれを恐れて、みな洛陽の聖善寺と白馬寺の2寺院へ登って避難した。廻紇は火を放って二つの寺院を焼き払ったので、死者は1万人を数え、数十日間も火焔はやまなかった。こういうことがあったが、このときに廻紇は朝賀して、思うままに官吏を侮辱して痛めつけた。そこで朝廷は陝州節度使の郭英乂を臨時に東都の留守番に任命した。そのときに東都は再び賊(史朝義軍)の侵略を受けたが、朔方軍および郭英乂、魚朝恩らの軍隊は暴動を禁止することができず、廻紇とともにほしいままに城中および汝州、鄭州などを掠奪し、立ち並ぶ家屋は焼き尽くされ、その結果、人々はことごとく紙で衣服を作り、なかには経典の紙を衣服にする者もあった。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • そこで代宗は、宣政殿に臨御し、冊文を出し、廻紇の可汗に称号を追加して登利頡咄登密施含倶録英義建功毘伽可汗となし、可敦には称号を追加して娑墨光親麗華毘伽可敦とした。(典拠:『旧唐書廻紇伝』)
  • 唐朝は散騎常侍兼御史大夫王翊を使者として可汗の行在所に赴かせ、冊命のことを行わせ、可汗、可敦をはじめ、左殺、右殺、もろもろの都督、内外宰相以下それぞれに実封2千戸を加え、王翊をして本営の前で冊命の例を行わせた。そして、唐朝は左殺を雄朔王に封じ、右殺を寧朔王に封じ、胡禄都督を金河王に封じ、抜覧将軍を静漠王に封じ、諸都督十一人をすべて国公に封じた。

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