突厥
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突厥(とっけつ、とっくつ)は6世紀から7世紀ごろ中央アジアに存在した遊牧民族と、それが中枢権力を構成して起こした中央ユーラシアに覇権をうちたてた遊牧国家名。アルタイ山脈の麓に住んでいた。
突厥は「テュルク」を漢字表記したものと考えられ、その中枢権力を構成した集団は正にテュルク系であると考えられている。また、その可汗の一族の属した氏族は阿史那氏と呼ばれる。当初は柔然に従属して、アルタイ山脈の西南で鉄の鋳造や金の採取の業をもって仕えていた。6世紀中頃に強勢となり、同じテュルク系の鉄勒(これも「テュルク」の漢字表記)を服属させ、その力で柔然の支配を打ち破り独立した。
その後はモンゴル高原に領土を広げ、サーサーン朝と結んでエフタルを滅ぼした。
東は中国の北方まで西はカスピ海にまで伸びる大勢力となった突厥だが遊牧民諸集団の連合体という遊牧国家の宿命ゆえ、国内では各遊牧集団を指導する、小可汗やベク、シャドの称号を持つ有力者が乱立しており、隋の離間策や強大になった国家運営を行える内治制度の不備などの理由から内部での対立が激しくなって東西に分裂した。
その後、東突厥の啓民可汗(突利可汗)は隋より安義公主を降嫁され、隋の後ろ盾で突厥の大可汗となったがこの時期に鉄勒の独立運動が激しくなり、突厥全土には影響力は及ばなかった。
隋の支配が乱れると啓民可汗の息子始畢可汗は勇躍し、隋に侵入して朝貢を停止した。また鉄勒を再び強い支配下に収め、隋を滅ぼした唐を圧迫した。627年に唐に侵攻し、唐は玄武門の変の直後で国境警備の兵は殺された李建成の指揮下にあったため動揺しており、突厥は簡単に長安のすぐ近く渭水まで迫った。この時、旧唐書によれば当時の唐皇帝の太宗に協約違反を責められてすぐに帰ったと書かれているが、これは非常に疑わしい。実際は突厥に有利な和約を結んで帰ったという所だろう。
しかしその二年後には唐軍と独立した鉄勒との挟撃を受けて始畢可汗の弟頡利可汗、始畢可汗の息子突利可汗は唐に降伏し東突厥は滅び、唐の羈縻支配に置かれる事になる。その後も何度か唐に対して背き、682年には独立を果たして第二突厥帝国と呼ばれる国を建てる。しかし内紛が激しくなり、745年にウイグルを中心とした連合軍に攻められて完全に滅びた。
西突厥はその後も内部紛争を繰り返し、唐の討伐を受けて衰退していった。
文化面で言えば、突厥は、東アジアにおいて、漢民族以外で、日本のかな文字と同様に、比較的早くに独自の文字を持った民族として知られる。そのことは、1889年以後に、モンゴル高原で発見された突厥碑文によって世に知られることとなった。中でも有名なのは、第二突厥帝国期の闕特勤碑文(オルホン碑文)である。
[編集] 歴代可汗
- 伊利可汗(トメン) (552年~553年) 柔然から独立し突厥を開く。
- 乙息記可汗 (553年~554年)
- 木杆可汗(ムカン) (554年~572年) 柔然を滅ぼす。中央アジアのエフタルを攻略して最盛期を築く。
- 佗鉢可汗 (572年~581年)
- 沙鉢略可汗 (581年~587年)
- 葉護可汗 (587年~588年)
- 都藍可汗 (588年~599年)
<東突厥>
- 啓民可汗(センガン) (587年~609年)
- 始畢可汗 (609年~619年) 隋に攻め入り朝貢を停止する。
- 處羅可汗 (619年~621年) )
- 頡利可汗 (621年~630年) 唐に降伏し、東突厥は一時滅ぶ。
- クテゥルク (682年~694年) 唐から独立し東突厥を再興させる。
- カパガン (694年~716年)
- ビルゲ (716年~734年)
- 伊然可汗
- 毘伽骨咄禄可汗
- 登利可汗
- 骨咄葉護
- 頡跌伊施可汗
- 烏蘇米施可汗
- 白眉可汗
(744年、東突厥滅ぶ)
<西突厥>
- 葉護可汗 (552年~575年)
- 達頭可汗 (575年~602年)
- 泥利可汗 (587年)
- 泥厥處羅可汗 (603年~611年)
- 射櫃可汗 (611年~619年)
- 統葉護可汗 (619年~628年)
- 莫賀咄可汗 (628年)
- 肆葉護可汗 (628年~632年)
- 咄陸可汗 (642年)
- 乙毘射櫃可汗 (642年~651年)
- 沙鉢羅可汗 (651年~657年)唐に攻められ、捕らえられる。
(739年、西突厥滅ぶ)
カテゴリ: 中央ユーラシア史 | 隋唐 | テュルク | 中国史に現れる周辺民族