道光帝
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道光帝(どうこうてい、乾隆四十七年八月十日(1782年9月16日) - 道光三十年正月十四日(1850年2月25日) 在位 嘉慶二十五年(1820年) - 道光三十年(1850年))は中国清朝の八代目皇帝。諱は旻寧。廟号は宣宗(せんそう)。日本では在世時の元号の道光を取って道光帝と呼ばれる。
嘉慶帝の第二子として生まれる。天理教徒の乱の際に紫禁城内に突入した反乱軍を撃退した。
嘉慶年間よりイギリスからのアヘン密輸が激増し、国内で中毒患者が増加した。皇族の中にもアヘンが蔓延し、健康面でも風紀面でもアヘンの害は甚だしいものがあった。またアヘンの輸入増加によりそれまで中国の大幅な黒字だった対イギリス貿易が赤字に転落し、国内の銀が国外へ流出する事で国内の銀相場は高騰した。当時の清は銀本位制であったので銀の値が上がる事はそのまま物価の上昇につながり、民衆の生活は窮迫した。
1836年(道光十八年)、道光帝は林則徐を欽差大臣に任命し、アヘン密輸取締りを命じた。翌年、林則徐は断固たる態度で禁輸に望み、商人たちのアヘンを没収しこれを焼き払った。1840年、怒ったイギリスのアヘン商人は広州を攻撃し、イギリス本国も艦隊を出して清を攻撃した。(アヘン戦争)
アヘン戦争に大敗し、屈辱的な南京条約を結ばされた清政府だが、その後イギリスだけに美味しい思いをさせる事は無いと思ったフランス、アメリカに黄埔条約、望厦条約を結ばされる事になった。これ以降の清は外に帝国主義の植民地活動を内に軍閥による権力奪取を心配せねばならなくなった。
1850年(道光三十年)、道光帝が死去した年に、太平天国の乱が勃発し、いよいよ清は前途多難となる。
なお陵墓は清西陵にある。
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