下総国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
下総国(しもうさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、領域は現在の千葉県北部、茨城県南西部、埼玉県の東辺、東京都の東辺(隅田川の東岸)にまたがる。総州(そうしゅう)とも呼ばれた(特に下総のみを指して北総(ほくそう)と呼ばれる事もある)。延喜式での格は大国、遠国。
目次 |
[編集] 沿革
7世紀に総国 (ふさのくに) の分割によって建てられた。下総は、古くは「しもつふさ」と呼び、これが「しもふさ」(しもうさ)に転じた。この下総国のほかにも、国の名前に「上」「下」や「前」「後」と付くものがいくつかあるが、いずれも畿内に近いほうが「上」「前」となっていて上総国と下総国は一見逆転しているように思われがちであるが、元々東海道は、海つ道(海路)であり、房総半島の南部の上総国の方が畿内により近い位置関係にあった。
実際、上総と下総はよく間違われる事が多い。 香取慎吾の特上!天声慎吾では、銚子市や旭市のロケで、千葉県観光協会の事務局長が出演し、千葉県出身の渡辺正行がナレーションをしてたにもかかわらず2週にわたり「上総」と放送し、上総の歌までつくった。
中世には千葉氏の歴代当主が下総の守護と権介を兼ねるようになり、特別な敬意を込めて千葉介(ちばのすけ、「千葉郡を領する(権)介」)と呼称された。
近世初期(1683年(貞享3年)また一説によれば寛永年間(1622年-1643年)に、下総の葛飾郡から利根川 (現在の江戸川下流) 以西の地域を割き、武蔵国の葛飾郡とした。現在は東京都・埼玉県に属する部分である。
[編集] 国府・国分寺・国分尼寺・安国寺・利生塔・一宮以下・総社
国府は現在の千葉県市川市の国府台にあったとされ、国府関連施設と思われる遺跡が発掘されている。
国分寺は千葉県市川市国分にあった。その法燈を市川市国分の国分山国分寺(本尊:薬師如来)が伝承する。国分尼寺は未詳である。安国寺は茨城県古河市にあったと伝えられるが廃寺である。利生塔は千葉県大栄町(現・成田市)吉岡の雲富山大慈恩寺(本尊:釈迦如来)がその法燈を受け継ぐ。
延喜式神名帳には大社1座1社、小社10座10社の計11座11社が記載されている。大社は香取郡の香取神宮(香取市香取)で、名神大社に列し、一宮となっている。二宮は千葉郡の二宮神社(船橋市三山)、海上郡の玉崎神社(旭市飯岡)などが論社とされるが、一宮香取神宮の力が大きいため、二宮以下は実質的には存在しなかったという説もある。総社は六所神社(市川市須和田)である。元は同市国府台の国府跡近くにあったが、旧陸軍の駐屯により現在地に遷座した。
[編集] 守護
[編集] 鎌倉幕府
[編集] 室町幕府
- 1336年~1351年 - 千葉貞胤
- 1353年~1365年 - 千葉氏胤
- 1365年~1417年 - 千葉満胤
- 1417年~1430年 - 千葉兼胤
- 1430年~1441年 - 千葉胤直
- 1441年~1454年 - 千葉胤将
[編集] 郡
[編集] 関連事項
- 令制国一覧
-
畿内: 山城 | 大和 (芳野監) | 河内 | 和泉 | 摂津 東海道: 伊賀 | 伊勢 | 志摩 | 尾張 | 三河 | 遠江 | 駿河 | 伊豆 | 甲斐 | 相模 | 武蔵 | 安房 | 上総 | 下総 | 常陸 東山道: 近江 | 美濃 | 飛騨 | 信濃 (諏方) | 上野 | 下野 | 陸奥 (石城、石背 / 陸中、陸前、磐城、岩代) | 出羽 (羽前、羽後) 北陸道: 若狭 | 越前 | 加賀 | 能登 | 越中 | 越後 | 佐渡 山陰道: 丹波 | 丹後 | 但馬 | 因幡 | 伯耆 | 出雲 | 石見 | 隠岐 山陽道: 播磨 | 美作 | 備前 | 備中 | 備後 | 安芸 | 周防 | 長門 南海道: 紀伊 | 淡路 | 阿波 | 讃岐 | 伊予 | 土佐 西海道: 筑前 | 筑後 | 豊前 | 豊後 | 肥前 | 肥後 | 日向 | 大隅 (多褹) | 薩摩 | 壱岐 | 対馬 北海道: 渡島 | 後志 | 胆振 | 石狩 | 天塩 | 北見 | 日高 | 十勝 | 釧路 | 根室 | 千島