長尾景広
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長尾 景広(ながお かげひろ、天正元年(1573年)[1] - 寛永7年(1630年))は白井長尾氏当主。後北条氏家臣。父は長尾憲景。子に長尾景泰。幼名は鳥房丸。初名は政景(北条氏政より偏諱を受けた)。
天正10年(1582年)、兄長尾輝景の命によって相模北条氏の人質として小田原城に入る。3年後に帰国するも重臣である牧氏の居城田留城を所望する。輝景と牧氏はこれを拒むが、政景は親北条派の重臣達の支持を受けて独断で牧氏一族を滅ぼして田留城を奪取、天正17年(1589年)には兄を隠居させて家督を奪ったとされる(ただし、近年ではこれを単なる伝承として、天正17年以後も引き続き輝景が白井長尾氏当主であったとして、景広の継承を越後上杉氏家臣時代とする説もある)。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の後に白井家は没落。その後兄とともに越後上杉氏の上杉景勝に仕え、兄の死後に継承分を併せて1000石を領する。大坂冬の陣にも参戦し、1000石を加増された。
[編集] 注
- ^ 『三百藩家臣人名事典』等では天正11年生まれとしているが、ここでは「牧和泉守事」(『戦国大名と外様国衆』所収)に拠った。