長沼藩
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長沼藩(ながぬまはん)は、信濃国(現在の長野県長野市大字穂保(長沼))に存在した藩。
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[編集] 概要
長沼城は戦国時代から江戸時代初期にかけては上杉景勝、豊臣氏、森忠政、松平忠輝の支配下に置かれていた。大坂の陣の戦功により、元和元年(1615年)に佐久間勝之が1万8000石で入る。 寛永11年(1634年)に勝之は死去し、その後を次男の佐久間勝友が継いだ。このとき、勝友は長兄勝年の子・勝盛に5000石を分与している。勝友死後は長男の佐久間勝豊が継いだ。このとき、3000石を弟の佐久間勝興に分与している。勝豊の後は養嗣子の佐久間勝親(秋月種信の五男)が継いだ。勝親は貞享5年(1688年)に御側小姓に任じられたが、病と偽って出仕しなかったことを咎められて改易され、その身は丹羽長次に預けられた。これにより、長沼藩は廃藩となったのである。
なお、勝友の弟勝種の子、盛遠(あるいは盛充)が勝興の養子となっており、後に赦されて家督を相続、200俵高で幕臣となった。
[編集] 歴代藩主
[編集] 佐久間(さくま)家
外様。1万8000石→1万3000石→1万石。元和元年(1615年)~貞享5年(1688年)5月15日。
- 佐久間勝之(かつゆき)従五位下、大膳亮。元和元年(1615年)~寛永11年(1634年)11月12日。
- 佐久間勝友(かつとも)従五位下、蔵人。寛永12年(1635年)~寛永19年(1642年)7月1日
- 佐久間勝豊(かつとよ)従五位下、安房守。寛永19年(1642年)7月~貞享2年(1685年)8月21日。
- 佐久間勝親(かつちか)織部。貞享2年(1685年)10月22日~貞享5年(1688年)5月15日。除封。
[編集] 分家・勝盛家
信濃国水内郡、近江国高島郡、5000石。寛永12年(1635年)~正保3年(1646年)9月29日
- 佐久間勝盛(かつもり)源六郎。無嗣断絶。
[編集] 分家・勝興家(赤沼知行所)
信濃国水内郡、近江国高島郡、3000石。寛永19年(1642年)閏9月1日~天和2年(1682年)8月11日。
- 佐久間勝興(かつおき)長助。寛永19年(1642年)閏9月1日~寛文4年(1664年)5月15日。
- 佐久間盛遠(もりとお)四郎次郎。寛文4年(1664年)12月10日~天和2年(1682年)8月11日。除封。