長谷堂城の戦い
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長谷堂城の戦い(はせどうじょうのたたかい)は、慶長5年(1600年)の天下分け目の東西合戦において、出羽国で行なわれた上杉景勝(西軍)と最上義光・伊達政宗(東軍)の戦い。
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[編集] 発端
会津攻めを計画していた徳川家康が、下野小山において石田三成の挙兵を知って反転西上すると、会津の上杉景勝は、家康が東に戻ってくるまでに家康方の最上義光を攻略しようとした。最上義光を滅ぼせば、上杉氏にとっては後顧の憂いが無くなり、安心して家康と決戦に挑めるからである。家康が江戸へ反転して山形に残された形になった義光は上杉方にそちらに嫡子を人質として送ってもよい等の条件で和平を申し込み山形へ出兵しないように要請している。しかし義光が秋田実季(東軍)と結び上杉領を攻める形跡を上杉側に知られたため実現されなかった。
[編集] 上杉軍出陣
慶長5年9月8日、上杉軍は米沢と庄内の二方面から、最上領向けて侵攻を開始した。上杉軍の総大将は景勝のもとで軍師を務めていた直江兼続で、総兵力は2万5000人にも及んだ。米沢を出た上杉軍は萩野中山口、小滝口、大瀬口、栃窪口、掛入石仲中山口に分かれそれぞれ進軍した。兼続は萩野中山口である。それに対して最上軍の総兵力はおよそ7000人にすぎず、しかも居城の山形城をはじめ、畑谷城や長谷堂城など多くの属城にも兵力を分散していたため、山形城には4000人ほどの兵力しかなかった。(ただし両軍の正確の兵数は不明。後に記述)
直江兼続率いる上杉軍は、9月12日に畑谷城を包囲する。この城は、最上軍の最前線基地であり、城将は江口五兵衛以下500人ほどに過ぎなかった。しかし江口以下、城兵は玉砕を覚悟で必死に抵抗する。このときのことを、『最上義光物語』では、
「東西南北に入違ひもみ合。死を一挙にあらそひ。おめき叫て戦ひければ、さしも勇み進んたる寄手も。此いきほひに難叶。持楯かい楯打捨て。一度にとつと引たりける」
と、城兵側に激しい抵抗をつぶさに描いているほどだ。しかしやはり兵力の差はいかんともしがたく、畑谷城はその日のうちに落城し、江口は敵軍の中に斬り込んで一戦した後、自害して果てた。しかし江口の激しい抵抗は、上杉軍に1000人近い死傷者を出させるという苦い勝利を与えていたのである。
9月17日、直江軍とは別に掛入石仲中山口を進軍してきた篠井康信、横田旨俊ら4000人が上山城攻めに取りかかった。守将は最上氏の家臣・里見民部であり城兵はわずか500名ほどにしか過ぎなかったが、里見民部は善戦した。なんと、城に籠もっていても芸が無いとばかりに、民部は城門を開けて打って出たのである。当然、上杉軍は待ってましたとばかりに反撃に出た。たちまち、城門付近で激戦が繰り広げられた。そのときである。上杉軍の背後から、最上軍が襲いかかって来た。民部は、あらかじめ少ない兵を分散し、草刈志摩という人物に別動隊を率いさせて城の外に出して待ち伏せをさせていたのである。いかに大軍とはいえ、背後を襲われてはたまったものではない。上杉軍はたちまち大混乱状態となった。
この大混乱を最上軍は見逃さず、前後から激しく襲いかかった。そして上杉軍は武将のひとりである木村親盛を最上軍の将・坂弥兵衛なる者に討ち取られたのである。この上山城で上杉軍は苦戦しその他にも椎名弥七郎をはじめとする将兵の多くが討たれた。里見は上杉軍400人余りの首を義光に送ったとされる。この上山城攻めの苦戦で掛入石仲中山口からの上杉軍は同時期行われていた長谷堂城の戦いで戦闘中の直江本隊とは最後まで合流することが出来なかった。
[編集] 長谷堂城の戦い
戦況は最上軍有利で進んだが、やはり兵力の差は大きい。しかも上杉景勝に呼応して小野寺義道までもが、最上氏の属城である湯沢城を包囲攻撃し始めたのである。しかし、こちらの戦いにおいても城将の楯岡満茂が善戦し、小野寺軍は苦戦していた。
一方、直江兼続は畑谷城を落としたあと長谷堂城近くの菅沢山に陣を取る。そして、その大軍で今度は長谷堂城を包囲したのである。長谷堂城は山形盆地の西南端にある須川の支流・本沢川の西側に位置し、山形城からは南西約8キロのあたりに位置する、山形城防衛において最も重要な城であった。つまり、この長谷堂城が上杉軍の手に落ちれば、山形城は裸城となるのである。
このとき、長谷堂城は最上氏の重臣・志村光安以下1000名が守備していた。攻め手は直江兼続率いる上杉軍1万8000人。攻城戦に必要なのは城側より3倍多い兵力であるから、兵力に不足は無かった。そこで、直江兼続は即座に力攻めを敢行するが、志村はわずかな兵力でよく守った。それどころか、9月16日には200名の決死隊を率いて上杉側の春日元忠軍を夜襲する。これは同士討ちになるほどの大混乱になり最上軍は兼続のいる本陣にまで攻め寄るがさすがに本陣は守り堅く近寄ることが出来なかった。しかし最上軍は250人ほどの首を討ちとったという。
9月17日、兼続は武将の春日元忠に命じて、さらに城を激しく攻め立てた。しかし、長谷堂城の周りは深田になっており、人も馬も足をとられて、迅速に行動ができない。そこへ志村は、鉄砲で一斉射撃を浴びせて上杉軍を散々に翻弄したのである。業を煮やした兼続は、長谷堂城付近の稲を刈り取ることで、城兵を挑発した。しかし、志村はそんな子供だましの挑発に乗って城から出撃しようとはせず、逆に直江兼続に対して「笑止」という返礼を送ったとまで言われている。
9月21日には、最上義光の縁戚で、やはり東軍に与していた伊達政宗の援軍、およそ3000人が笹谷峠を越えて山形城東方に布陣した。とはいえ、伊達の援軍をあわせても、上杉軍の兵力においての優位に変わりはなかった。一方、長谷堂城を守る志村高治はなおも善戦し、9月29日には上杉軍の武将・上泉泰綱を討ち取るという大戦果を挙げた。
[編集] 撤退戦
そしてこの29日に、関ヶ原の本戦において石田三成率いる西軍が、徳川家康率いる東軍に大敗を喫したという情報が、直江兼続のもとにもたらされた。敗報を知った兼続は撤退を決断する。しかしそうなると攻守逆転し、今度は撤退する上杉軍を、最上軍と伊達軍が徹底的に追撃してきたのである。兼続は鉄砲隊をもって最上軍を次々に攻め最上軍も勢いに乗り攻めてくるため義光の兜に銃弾が当たるなど大激戦となり両軍多くの死傷者を出した。しかし前田利益や水原親憲などの善戦もあり、兼続率いる上杉軍は最上軍の追撃を振り切り無事米沢に帰還した。「最上義光記」には「直江は近習ばかりにて少も崩れず、向の岸まで足早やに引きけるが、取って返し。追い乱れたる味方の勢を右往左往にまくり立て、数多討ち取り、この勢に辟易してそれらを追い引き返しければ、直江も虎口を逃れ、敗軍集めて、心静かに帰陣しけり」とある。
この撤退戦は後世まで語り草になったといわれている。最上義光は兼続を「上方にて敗軍の由告げ来りけれども、直江少しも臆せず、心静かに陣払いの様子、(中略)誠に景虎武勇の強き事にて、残りたりと、斜ならず感じ給う」と評し、家康も兼続が駿府を訪れた時「あっぱれ汝は聞き及びしよりいや増しの武功の物」とおおいに賞賛したという。
[編集] 意義
この戦いは、「奥州における東西合戦」と言える。最上軍は少ないながらも善戦したことにより戦後、家康はその功績を賞賛して最上義光に出羽山形54万石を与えている。
[編集] 長谷堂城の戦いにおける兵数について
長谷堂城の戦いについては当時の良質の史料がほとんど残されておらず兵数も後世の軍記などに頼ることになるが、これらは誇張された部分も多くそれぞれに数の開きがあって確実な兵数は不明といわれる。例えば、上杉軍撤退の時の双方の死傷者は最上側では「味方の戦死者623人敵の戦死者1580人」とするが上杉側は「敵の戦死者2100余り」としている。