長野主膳
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長野 主膳(ながの しゅぜん、1815年11月16日(文化12年10月16日) - 1862年9月20日(文久2年8月27日))は、江戸時代末期の大老・井伊直弼の参謀。前名は主馬。諱は義言。
伊勢国出身と言われているが、彼の若い頃のことはあまり詳しくわかっていない。本居宣長の国学に興味を持ち、1841年に近江国坂田郡志賀谷村に私塾・高尚館を開いた。1842年、当時は部屋住みであった直弼もこの私塾に興味を持って訪問しているが、このとき、主膳と直弼は師弟関係を結んだ。
やがて直弼が兄の死を受けて彦根藩主となると、主膳は直弼に招聘されて藩校・弘道館国学方に取り立てられ、直弼の藩政改革に協力した。直弼からの信任は厚く、1858年に一橋派と南紀派による将軍後継者争いが起こると、主膳は直弼の命で京都に赴き、公家衆らへの裏工作を行なって南紀派が推薦する徳川家茂擁立に貢献した。しかし、直後の安政の大獄で直弼に対して一橋派の処罰や尊皇攘夷派の志士の処罰を進言したため、直弼に次いで恨まれる存在となる。
1860年、直弼が桜田門外の変で暗殺された後も彦根藩の藩政に参与したが、直弼の後を継いだ井伊直憲からは疎まれ、しかも彦根藩の家老・岡本半介に直弼時代の功績などを嫉視されて対立する。そして1862年、半介の讒訴を聞き入れた直憲によって斬罪に処された。享年48。
直弼が安政の大獄を行なったのは、主膳が進言したことが要因になったと言われている。直弼という強力な後ろ盾を失った時点で、主膳は命運が尽きていたのかもしれない。