関光徳
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関 光徳(せき みつのり、1941年1月4日 - )は、日本の元プロボクサー、元東洋太平洋フェザー級チャンピオン。現在は横浜光ボクシングジム会長。
[編集] 現役時代
世界ミドル級チャンピオンであったロッキー・グラジアノの半生を映画化した「傷だらけの栄光」に興奮した友人のボクシングジム入門に付き添っていったところ、つい自分も入門してしまったというエピソードは有名。1958年、フライ級でデビューしたが初戦は黒星。しかしアジアの強豪を次々に破り、デビューから二年半後の1961年6月、遂に世界初挑戦のチャンスを掴んだ。
時の世界フライ級チャンピオンは、タイの名手ポーン・キングピッチであった。減量に苦しむ関はキングピッチの老獪なボクシングに強打を封じられ、初の世界挑戦は失敗に終わった。
1968年1月23日、ハワード・ウィンストンとのWBC世界フェザー級王座決定戦で9RTKOで敗退し現役引退。
稀代の妖刀になぞらえ「村正」と呼ばれた左ストレート、右フックの強打を武器に計5度の世界タイトルを戦ったが、遂に世界制覇はならず。グローブを交えた世界チャンピオン3人がいずれ劣らぬ歴史的強豪だったという事情から、「悲運のボクサー」の筆頭に挙げられることも多い名選手である。
戦績:74戦62勝(35KO)11敗1分(6EX)
[編集] 引退後
引退後、所属ジムであった新和ジムの名前を冠した新和セキジムを東京に設立。
後に、横浜光ボクシングジムの会長に就任。
自身が成し得なかった世界王者の夢を後進に託し、畑山隆則・新井田豊がその夢を叶えることになる。
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