関口氏心
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関口氏心(せきぐち うじむね、慶長3年(1598年)? - 寛文10年3月7日(1670年3月7日))は、日本の江戸時代初期の柔術家。関口流(関口新心流)の開祖であり、柔術の祖ともいわれる。通称は弥六右衛門、号は柔心。子は関口氏業。号より一般に関口柔心とも呼ばれる。
今川氏の庶流であり家臣であった関口家に生まれる。幼少の頃より武芸、組討に優れていた。今川氏滅亡の後は諸国を武者修行し、林崎甚助より神夢想林崎流の抜刀術、三浦義辰より三浦流柔術、陳元贇より拳法、捕縛術を学ぶ。また、屋根から猫が落ちるものの1回転して着地し何事も無く歩いていくのを見て開眼し、自ら屋根から落ちてみるなどの修行の末高度な受け身を極めたという。これらの事を工夫しまとめ、柔術の流派である関口流を開いた。
「柔術」という名称の起源として、氏心が「老子」の一節「天下に水より柔弱なるは莫し。而も堅強なる者を攻むるに、之に能く勝つこと莫し」からそれまで組討術、捕縛術等と呼ばれていた技術に「柔術」と名付け、それが広まったという説がある。
諸藩より仕官の誘いがあったが、紀州徳川家の柔術指南役として徳川頼宣に仕えた。関口流は紀州藩の御流儀となり、江戸時代に最も広まった柔術流派のひとつとなった。