関口親永
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関口 親永(せきぐち ちかなが、永正15年(1518年) - 永禄5年(1562年))は、今川氏の一門で有力家臣。名は義広、氏広とも。今川氏親から偏諱をもらい親永に改める。関口氏は瀬名氏の分家にあたり、今川貞世を始祖にいただく。瀬名氏は、別名、遠江今川氏ともいい、当初は、本家にあたる駿河今川氏とは別に、幕府から代々、遠江守護に任じられていた。足利義教の禁令がでるまでは、遠江今川氏も今川の名字を称していた。 親永は、今川義元の妹婿であり、用宗城主であった。徳川家康の正室・築山殿の父に当たる。1560年に義元が織田信長によって桶狭間の戦いで討たれた後も、衰退する今川氏を懸命に支えたが、家康が今川氏から独立したため、その舅に当たる親永に対して氏真が責任を追及したため、親永は自殺してしまった。