隠れ念仏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
隠れ念仏(かくれねんぶつ)は、権力から禁止された浄土真宗(一向宗)の信仰を、権力の目から逃れて信仰すること、或いはそれを行う者や集団を指す。
南九州の旧薩摩藩や旧人吉藩では、三百年にわたり浄土真宗が弾圧されたため、これらの信仰形態の名残が見られる。
また、神道と習合してカヤカベ教のような秘密宗教も派生したが、基本的には本願寺教団に属し、浄土真宗の主流の教えを守る者をいう。東北の隠し念仏は別物と考えられる。
目次 |
[編集] 弾圧の実態
[編集] 弾圧の始まり
浄土真宗禁制に乗り出したのは人吉藩の方が早く、弘治元(1555)年に遡る。薩摩藩は慶長2(1597)年である。加賀一向一揆や石山合戦の実情が伝えられ、一向宗が大名によって恐れられたのが原因と考えられる。以後300年にわたり禁制が続けられる。
[編集] 仏具の焼却
人吉藩では真宗信者の家から仏像・仏具を撤収し、それを焼却して処分した。熊本県球磨郡相良村柳瀬にはそうした仏像仏具を焼却した旧跡が残されている。
[編集] 拷問と処刑
薩摩藩では「石抱き」という拷問が行われた。三角の割木を並べた上に容疑者を正座させ、幅三十センチ、長さ一メートル、厚さ十センチ余、重さにして三十キロの平たい石をひざの上に一枚ずつ重ね、体を前後に揺さぶる。石が五枚ぐらいになると足の骨は砕け絶命することもあったという。この拷問は一向宗信徒のほかにはキリシタンと主殺しのみに適用されたものである。
また滝の滝壷に信者を投げ込み、浮き上がってくると竹竿でつついてしずめ最後には溺死させるよう刑罰も行われた。
熊本県人吉市瓦屋町には「与内山の首塚」が残っている。浄土真宗の講のオルガナイザーだった伝助という人物の首塚と伝えられる。伝助は地元から京都の本願寺に志納金を納めに行く途中裏切りに会い捕らえられ、打ち首獄門に処せられた。伝助の愛弟子であった秋山和七郎がその首を盗み出し、自分の地所に埋葬したのがこの首塚であると伝えられる。
[編集] 弾圧の終わり
薩摩では明治元年(1868年)、廃仏毀釈が行われる。それは徹底的なもので寺という寺が破壊され、神社に変えられた。明治九年、真宗禁制がとかれるが、西南戦争が始まったため事実上の解禁はその後になった。旧人吉藩の実情も同様であった。
実質的な真宗解禁後、浄土真宗本願寺派は猛烈な布教を行い、鹿児島県は浄土真宗一色になった。しかし、解禁後も新しく出来た本山主導の寺と隠れ念仏のネットワークの間にはさまざまな軋轢があったという。
[編集] 信仰と抵抗
[編集] 講のネットワーク
浄土真宗は蓮如以来、「講」と呼ばれる組織のネットワークを持っていた。三百年間、「隠れ念仏」の信仰が地下で続けられた背景にはこの講の組織があった。講は「番役」というリーダーを中心に、身分の区別なく組織され、「取次役」を通じて本山の本願寺と繋がっていた。
[編集] かくれ念仏洞
浄土真宗門徒はこのような講の組織を背景に、山中の洞穴などで法座といわれる集会を開いた。このような洞穴は戦後になって隠れ念仏洞と呼ばれるようになった。また抜け参りといって、藩境を超えて信仰の許されている藩の真宗寺院に参詣することも行われた。熊本県水俣市にある浄土真宗本願寺派源光寺には、薩摩部屋というものが残されている。これは薩摩から密出国した一向宗門徒が、世間の目に触れないように身を隠した場所なのであるという。
[編集] 信仰の偽装
隠れキリシタンが「マリア観音」などの信仰の偽装を行ったことは知られているが、隠れ念仏もさまざまな偽装をほどこして信仰を守った。浄土真宗の信仰の証拠となる阿弥陀如来立像や、親鸞聖人の御影(肖像)、六字名号(南無阿弥陀仏)などは隠して守らなくてはならなかった。その偽装には傘仏(傘の形の桐材の容器に親鸞の御影の掛け軸を収めた)やまな板仏(まな板に似せた蓋つきの薄い木箱に本尊の掛け軸を納めた)などがあった。
川辺地方では、見かけは箪笥で扉を開くと金色さんぜんとした、隠し仏壇が作られた(東本願寺鹿児島別院に保存)。鹿児島では洞窟のことをガマと言い、今でも川辺仏壇のガマ型にはその「隠し仏壇」の要素が色濃く残っていると言われる。
またいわゆるカヤカベ教のように、弾圧の中で本願寺とのつながりを絶ち、神道や修験道と習合して独自の道を歩む門徒もいた。
[編集] 逃散
南九州の一向宗門徒は北陸の門徒のように「一揆」という形での抵抗は行わなかった。その代わり、土地を捨てて集団で逃げる「逃散(ちょうさん)」あるいは「欠落(かけおち)」ということが行われた。逃散は各地で単に生活苦から逃れるためにも行われたが、薩摩では念仏信仰を守るために念仏信仰が許されている隣接諸藩に逃亡する逃散が行われた。寛政10年(1798年)には2800人の男女が薩摩藩領から隣の飫肥(おび)藩領に逃げ込むという事態が生じた。これには、実は労働力不足に悩んでいた飫肥藩がひそかに関係していたといわれている。「欠落奉行」「逃散奉行」と呼ばれる奉行職を設けて逃亡農民に対応したという。
[編集] 隠れ念仏の名残り
京セラの名誉会長、稲盛和夫氏は、自身が幼少期に体験した隠れ念仏の信仰の体験を語っている。
「私は子供のころ、小学校へ行く前ですが、私の父親の家――鹿児島市内から四里ほど田舎ですけど――では隠れ念仏をやっていました。もうそのときは西本願寺もありましたのに、村のなかにある小さな小屋のようなところに、夜、提灯をともしましてね、親が私の手を引いて連れて行きました。それで、『静かにしておれ、声を出したらいかん』と言うんです。むかしの名残りなんでしょうね。たぶん」 「昭和ですよ。私が小学校行く前ですからね。その小さな山小屋みたいなところへ行きますと、奥まったところに仏壇がありましてね。老人が一人、ちょこんと坐って、私には、『ああ、この子はもういいですよ』と。『明日から朝と晩とお仏壇に向かって「なんまんだ、なんまんだ、ありがとう」と必ず言いなさいよ。それさえすれば、この子はもういいですよ。』と言いました。子供は全部で四、五人いたのですが、ある子には、『いや、この子はまた来週も連れてきてください』と言うんです。」 (稲盛和夫・五木寛之「何のために生きるのか」致知出版社 101ページより。)
[編集] 参考文献
- 五木寛之「隠れ念仏と隠し念仏」講談社
- 「五木寛之の百寺巡礼 ガイド版 第十巻四国・九州」講談社
- 米村竜治「殉教と民衆」同朋舎出版
- 桃園恵真「新訂さつまのかくれ念仏」国書刊行会
- 稲盛和夫・五木寛之「何のために生きるのか」致知出版社